ペルー旅行記

ペルー旅行記

社員旅行から帰国した2日後、前回のドバイに続き再び強行出発。
今回の旅行地は南米ペルーである。
成田から約12時間アメリカヒューストンに到着した。
社内でもお客様がアメリカで乗り継ぎが出来ないことが8月に何回か発生していたので、「何で!」と思いながら半信半疑で入国審査場に行ってみた。
テロ以降入国審査が厳しくなった事はもとよりアメリカ入国に外国人はビザが必要になった国もあることから入国審査場は人・人・人でごった返していた。
まるでディズニーランドの人気アトラクションに並んでいるような気持ちになった。
これでは本当に乗り継ぎ出来ないと言う事で係員にリマに行くこと、乗り継ぎ時間が足りないと言う事を伝えて別の通路から入国審査を済ませて荷物を受け取り税関へ・・・・・・
これまたアトラクションの入り口で入場券を渡した後に乗り物に乗るまでにたくさん待たされるくらい長蛇の列。


これには参ったが、仕方がないので並び、やっと終わったのは搭乗時間の約1時間前。
やはり普通に並んでいたら乗り継ぎが出来ないだろうと思った。
それから再び7時間のフライトを経てようやくリマの空港に到着した。
ほっとしたが、ここで安心は出来ないのが南米!人間は乗り継ぎできたが、はたして9日間の荷物は乗り継ぎ出来ているだろうか?ターンテーブルの前でしばらく待つがなかなか自分の荷物が出てこない。
3月のドイツでの悪夢が蘇ってきたところでようやく荷物の姿が・・・・ホッと一安心。
くじ引きのようなペルーの荷物検査と入国審査を終了し、乗り継ぎ時間も含めると約24時間そしてスリランカからあわせると時差は17時間ようやく南米ペルーへとたどり着いた。
ホテルへ行く途中ガイドさんに荷物は座席の上に置いてはいけないとアドバイスを受けた。
なぜか?信号待ちをしているときにガラスを破壊されて荷物を持っていかれる危険性があるとの事。
皆さんも注意しましょう。
40分ほどでホテルに到着し翌日のスケジュールに関して確認したところ、翌日のクスコへのフライトが午前6時30分
起床時刻は午前3時!!強行日程はまだまだ続くのであった・・・・・・・・・
ホテル到着が1時30分。リマホテル滞在は僅か1時間30分、シャーワーをして一休みして再び空港へ。
寝不足のまま日本の富士山とほぼ同じ標高の地であるインカ帝国の首都クスコへ。
到着してみると思ったほど苦しくもなく余裕をもっていた。
空港ではバンドが生演奏でお出迎えかと思いきやCDの即売だった。
現地ガイドさんと待ち合わせて宿泊ホテルへ到着後「コカ茶」のウエルカムドリンクを一口。
ゲェ!まずい。
コカの葉っぱを熱湯で煮出したもので高山病予防にも効果があるといわれているこの土地でポピュラーな飲み物だが
私にとってはただの葉っぱを熱湯で煮出したようにしか思えないし、子供のころやったおままごときのお茶が思い出される。
普通のお茶も嫌いな私にとってはこの上なくまずい飲み物だった。
宿泊ホテルはロス・アンデスホテルで4階の最上階の部屋だった。気を利かせてくれたつもりなのだろうが標高3400Mの高地で4階までの階段上りは日本の3倍辛いものがあった。
午前中は元気良くクスコのホテル視察へ勢力的に8件を回った。
町自体が大きくないので全て徒歩回ったが、やはり少し息苦しくなった。
悪夢はクスコ市内と郊外観光の時に起きた!!
カテドラルサント・ドミンゴ教会・カテドラルと観光をしていると頭を金槌でたたかれるような痛みと目玉を押されるような激痛が襲ってきた。
これがいわゆる高山病である。(高山病は個人の体調等による為ならない人もたくさんいます。)
この後はバスから一歩たりとも降りる事が出来ず観光はふいになってしまった。
皆さんも水分補給と睡眠は十分に取って下さい。
やっとの事で夕方6時ホテルへと到着。2時間の休息をしてフォルクローカテドラルフォルクローレショー(エル・トゥルーコ)レディナーショーへと向かったが高山病による頭痛はまだまだ襲いかかり夕食も取れなかったが、日本でも有名な「コンドルは飛んでゆく」などの音楽と民族舞踊を見学し、食事内容も見てきた。
元気であれば品揃えがたくさんあったのできっとおいしかっただろうと今思うとちょっと悔しい気もするところだ。
何も出来ずに就寝・・・・・・・
ペルーレイル翌日、高度にも順応できたのか激痛からは解放されこの旅のハイライト「空中都市マチュピチュ」の観光である。
やはり朝は早いがクスコからアグアスカリエンテスと言う村まで列車で約4時間。
列車の種類はいくつかあるのだが私が乗ったのはバックパッカー(飛行機で言うとエコノミークラス)と言う種類で4名対面式の列車である。
ペルーレイル車中にて知らない外国人がゾロゾロとやってくる。どんな人が対面になるかと思っていたら気さくなアメリカ人のMR ジョン。
初めはお互い特に会話もしなかったが列車が動き出して1・2分ともたないうちに会話が始まった。
「お前は日本人か?」「そうだよ。」すると隣に1名の女性が座り「ジョンの奥さん?」と聞くと「違う!彼女は友達で旦那さんは忙しいから僕とペルーに旅行にきている」と答えた。
最初はアメリカ人同士はそう言う事も平気なんだなと文化の違いを感じていたけど、「日本にも2回行った事がある。」という会話からどんどん2人の関係が怪しいと思い始めた。
その時に誰と日本に行ったのかと聞くとその彼女だった。結局最後までは聞けなかったが今でも怪しいと思っている。
まぁそんなことを思いながらどんどん標高は下がりクスコから1,000M下がったアグアスカリエンテスの村に到着。
体がどんなに軽くなった事か皆さんも実感できる事でしょう体調は絶好調。
駅にはさまざまな国籍の人たちがたくさんいた。
そのさまざまな外国人(私も含めて)は目的のマチュピチュ遺跡を目指し線路脇の道を一直線。
マチュピチュ遺跡遺跡の入り口は村からバスで30分のところにあり、入り口からは遺跡は見えないので、こんなもんかと少しがっかりしたがいざ中に入ってみるとドォーンとガイドブックにも載っている風景が登場。
遺跡等にはあまり興味がないのだか、アンコールワット・ピラミッドに続き遺跡に感動した。
何が?と聞かれると答えに困るが、何でこんなに大きなものがこんなところにあるのかと言う事とスケールのデカさに圧倒される。
英語のガイドさんについて行きながら説明を受けるが、ここは私見であるがガイドさんについて行かなくてもガイドブック片手にテンポ良く回ったほうがたくさん見れると思いガイドから離れ適当に・・・・・
段々畑・水汲み場・日時計など、特に水汲み場は今でも水が流れていて自然の力と当時の技術の高さを思い知らされる。
マチュピチュ遺跡の奥の山頂に建物があり、そこを目指す事を決意!!
ワイナピチュの登頂へと向かった。入り口では名前と国籍を記入し入場時間を記入する事が義務づけられている。
ジョンとジョンの彼女と記念撮影 かなり険しい道のりになるのだろうと思っていると再び気さくなアメリカ人ジョンとその彼女の登場。
「お前も行くのか?」と聞かれ「I HOPE SO」と答えると一緒に行くことが決定。
更に仲間が加わり1人でペルーに旅行に来ていた銀行員の人と4人でいざワイナピチュへ。
最初は順調に4人で仲良く行っていたが道のりはそんなに甘くはなくなってきた・・・・・・
ワイナピチュ体は絶好調と言えども標高2,000Mの高地で階段は急で小さくまるでロッククライミングでもしているくらいに思えた。蛇足ではあるが、年に何人かは転落しているらしい。
4名の隊列は徐々にバラバラになり私も頂上にたどり着くのに3・4回は休憩をしました。
この辛さはスリランカのシギリアロック登頂の5倍くらい苦しいものだったが40・50分で無事4名ともワイナピチュ登頂成功。
ワイナピチュ登頂成功!汗はダラダラ、息もすごく苦しかったが登り終えたときの達成感はとても気分が良いものだったし、そこからの眺めは最高でマチュピチュ遺跡を独り占めしているような、そして自分がインカの王様になったかのように嬉しかった。
上記に独り占めしていると書いたが、実際は全部で4・5名の人たちが先に居たので独り占めではなかったがその人たちとも喜びと健闘をたたえながら写真をパシャ!
すがすがしいインカの風を受けながら汗も引いたところでジョンたちは帰りの電車の出発も近くなったので下山する事になるわけだが、危険なのは行きだけではなく帰りもまたしかり。
かなりの急勾配で上ったのだから下りもかなりの勾配で銀行員のお兄さんは足を踏み外して尻で階段を滑っていた。
転落まではいかないが痛そうではあった。
再び入り口にたどり着き到着のサインをして振り返ってワイナピチュを見上げるとずいぶん高いところまで上ったもんだと自分をもう一度誉めてやりたくなった。
修学旅行生達と記念撮影マチュピチュ遺跡から村に下山する時に現地学生もたくさん修学旅行にきていたみたいでザワザワとしていたがカメラを向けると日本人が珍しいのかたくさんの子達がファインダーの中に入ってきたので皆で記念写真IN マチュピチュ!!
ホテルはアグアスカリエンテス村のハッチャイタワーホテルで、川沿いのホテルに宿泊した。
だんだん空が赤く染まり川の流れと合わさって情緒があるのは良かったが、川のせせらぎと言うよりも激流っぽいので
深夜になると少し川の音が耳障りになった気もする。
疲れているにもかかわらず早朝5時には目がさめたがホテル前の工事をしていたが既に人が現れていてペルーの人は働き者だと感心した。
朝食を済ませた後マチュピチュには行かずにアグアスカリエンテスの村を散策。
お土産屋さんがズラリと並びアルパカのセーター・マフラーなどの衣料品の商品が所狭しと陳列されていて料金的には日本円で安いものは100高くても2,000くらいでお土産を買うにはちょうど良いくらいだ。
私は一度商品に手をつけたお店のおばちゃんに何回も追いかけられて一つお土産を買う事になった。
そんなに高いものではなかったが2度3度と追いかけられて結局袋一杯のお土産を買う事になってしまった。
但し誤解して欲しくないが私が買った商品は全て買おうかどうしようか迷ったものなので、おばちゃんはしつこく付け回したのではなく、料金交渉をしようと追いかけてきただけなので熱意に負けて買っただけなのだ。
決して悪徳商法をしたわけではないので、おばちゃんの名誉は守りたいと言う事と、おばちゃんの商売根性はすごかったと言う事だ!
アグアスカリエンテスからクスコに帰る頃には顔まで覚えててくれて手を振ってくれてお見送りまでしてくれた。
そこまででは落ちがないのだが、最後の最後にまたまた「何か買って行け」というのでおばちゃんから買ったお土産の荷物を見せて「持てないから買わない」と言って買わなかったが、まったくおもしろいおばちゃんだった。
帰りのアグアスカリエンテス駅も人・人・人でごった返していたが旅人はそれぞれ楽しい思い出を抱えて乗客も旅行気分で楽しげであった。
電車が到着し客席は満席で膝がぶつかるほどであるが、ここでも楽しい仲間が出来ました。
行きはアメリカ人で帰りはイタリア人観光客のグループでした、最初はやはり様子見であるが見ず知らずの私にチョコレートのプレゼント。
私もお返しにお煎餅をプレゼントしたが拒否されて悲しかったが、これがきっかけで会話が始まった。
イタリア人は英語が苦手なのか、メンバーの中で英語を話す人を連れてきてその人を介して皆で談笑。
話をしているうちに日は落ち辺りは一面暗闇になっていた。
するとどこからともなく「空を見上げろ」と言うではないか、皆窓から顔を出してみると、空に近い場所というのと空気が澄んでいるので夜空には無数の星が煌いていた。それは日本ではお目にかかれないほどの数の星であった。
その美しさは皆が息を飲むほどのものであった。
イタリア人観光客はクスコの手前で下車し、一人になってしまったがこの後は韓国籍のカトリックシスターと話す事になった。
韓国から宗教の修行のためにペルーに来ているとのことで、一生結婚しないといっていた。
こういった人たちと話をした場合は必ずと言ってよいほど「あなたの宗教は?」と質問されるので、日本人も自分の宗教ははっきりと持っていないと困ってしまう。(例外に当たらず私も無宗教と言ってよいくらいだったので困った。)
ようやくクスコの駅に着いたのは夜9時過ぎで高度が再び3,400Mに達したのと喋りすぎたので口の中が乾燥してカピカピになってしまっている事をここで気がついた。
ようやく高度にも慣れ夜のクスコの町は宝石を散りばめたようなくらい美しく、ホテル到着後一人歩きをしてみた。
やはり標高が高いので夜は寒かったがそんなことは忘れてしまうくらいの美しさであった。
広場や教会は暖色系の明かりでライトアップされていて、治安もリマと比べて格段に良いので私のオススメである。
夜の散歩を終えてホテルに戻ったが、部屋は前と同じで4階やはりきつかった・・・・・・
もしかするとペルー(標高の高い場所)に行く場合は事前にトレーニングが必要?とふと思った。
翌日はクスコよりも更に標高の高い場所、プーノへの出発の為酒もタバコも止めて早めに就寝。
禁煙・禁酒の努力もあって翌朝頭痛もなく起床することに成功。
これからはクスコからプーノへ8時間のロングドライブである。
とはいっても途中4箇所の観光ポイントと食事休憩があるのでそれほど心配する必要もないのであるが・・・・
クスコープーノ間はデラックスバスで向かうわけだが、バスのシートは飛行機のエコノミークラスよりも広く・リクライニングの角度も大きいのでロングドライブでもそれほど疲れなかった。
途中アンダワイリーヤスと言う小さな村にある16世紀に建てられた教会を観光した。
500年も昔の教会で建物もかなり老朽化しているが壁にはモザイク画が残っていたり昔のパイプオルガンが残っていたりと、こんな田舎なのに素晴らしい教会があるのかと感心した。
また、田舎の村なので珍しいものも発見した。今は大統領ではないがフジモリ大統領のポスターがまだ壁に貼り付けてあったりと大きな見どころは教会だけど別の意味で面白い村だった。
ラ・ラヤ峠にてその後はラクチ遺跡を観光し昼食を済ませ、私もだんだん悪夢を思い出してきた。
プーノに行く為には峠を越えていかなくてはいけないのだが、ラ・ラヤ峠ここは私も未体験ゾーンの4,300M地帯どうなることかとヒヤヒヤものであったが何とかクリアーし、アルパカを引く女性の写真を撮るくらいの余裕があった。
ようやく峠を越え、アンデス地方最も古いといわれている遺跡のプカラ遺跡を観光。
そして、フリアカを通過後19時くらいにプーノに到着した。
標高3,800Mのこの地でもやはり軽い高山病にかかったがクスコほど酷くなかった。
翌日南米最大の湖チチカカ湖の観光。
チチカカ湖を船で移動ここには水上で暮らす民族がいてトトラと言う草のようなものの上に住居を構え生活をしている。
この島には船でしか行かれないが、到着すると島はウォーターベッドのようにフワフワと揺れて浮かんでいる。
この島々には小学校も水上に浮かんでいるという不思議な民族の島である。
チチカカ湖の大きさはペルーとボリビアの2つの国をまたいでしまう大きさで琵琶湖の12倍もあり湖の中心部分に行揺れて浮かんでいる島々くには船で4・5時間かかる程である。
湖の中心部では今でも湖の水を生活用水だけでなく飲み水としても使っているほど綺麗だと言う事だ。
私は島の小学校にお邪魔する事になり、お土産を持っていなかったので日本のお菓子をおみやげ代わりにあげたらこちらでは大人気で先生までもが手を出し大きさを比べて喜んだり、悔しがったりとしている姿を見ると面白く思った。
この学校は1つの教室で授業の様子2学級分の構成になっていて1人は大人の先生で少し大きな子供を教え、小さい子供たちは上級生のお姉さんが先生役になって教えているというほのぼの学級である。
お菓子のお礼に日本語の歌をクラス全員で歌ってくれた。
どこで覚えたのかは知らないが「♪さーいーたー さーいーたー チューリップの花がー♪」とチューリップの歌を歌ってくれたのですが、発音もかなり上手に歌ってくれた事に感心した。
楽しく時間を過ごしたが、リマに帰る飛行機の時間も近づき島を後にした。
プーノの観光が終われば高山病からも解放されると思いながら空港へ行くと・・・・・・
何とオーバーブック!!飛行機に乗れないことがわかりガッカリ。(何で自分がと思ったが3秒で納得)
フリアカ~アレキパ間のバスにて皆さんも南米と言う国はこういう国だと思って旅をすることをお勧めします。
オーバーブックに遭遇した乗客7名(内3名日本人・3名アメリカ人・1名ペルー人)
では、どうやってリマに帰ったかというと、フリアカからアレキパまでワンボックスで5時間のロングドライブ。
最初は道なき道を1時間30分走りつづけた。
本当のことは良くわからないが、突然ドライバーが車から降りて人に道を聞いていたのは事実で本当に驚いた。
これにはさすがの皆も(ドライバーが道に迷ったんじゃないかと不安に思い)皆で大丈夫か?とドライバーに質問してしまった。
2時間後ようやく舗装された道路にたどり着き一行は安堵に満ち溢れ拍手喝采であった。
飛行機にも乗れなくて不安な思いもしたが良い事もあった。
夕方になると辺り一面が真っ赤な夕焼けで、山がとても綺麗に見えたことだ。
飛行機に乗ってしまったらこんな素晴らしい景色には出会えなかったと一同感動していた。
夕焼けもだんだんと暗闇になり、アレキパ発の飛行機の時間が迫ってきていることに一同気づく。
まだかまだかと思ってやきもきすると出発の30分前ぎりぎりにアレキパ到着。
ようやくリマに到着できたのは夜10時。
リマの用事も出来なくなってしまったが、高山病からは解放されたのが唯一の幸せだった。
その晩は快適睡眠で最終日に備えた。
壮大なナスカの地上絵リマ最終日はナスカの地上絵観光。
これもペルーに来たら是非行ってみたいところだったので楽しみにしていた。
ここでも珍事件が・・・・
別のツアーのお客さんだったが日本人ツアー客のグループ8名の人がイカからリマに戻る航空券をリマから持ってきていない事が発覚。
私はいつも旅の悪戯に行く場合は隠密旅行にする事が多いので、普通の旅行者を装い手助けを・・・・・・
その人たちと仲良くなりいつのまにかツアーガイドになっていた。(無理やりさせられたわけではないが)
航空会社とのやり取りの窓口は私になり、遊覧飛行でも一緒のグループになりまわることになった。
普段添乗員の仕事はしていないので、添乗員さんは大変な仕事だと言う事が別の意味でよい勉強になった。
さて、いよいよ遊覧飛行だが最初遊覧飛行は大体30分くらいと聞いていたので随分と少ないなと思った。
しかしこれが30分で十分!!
これ以上やったら吐きそうで限界まじかだった。
私は食前のフライトだったが、食後のフライトだったらと思うと・・・・・・・
遊覧飛行後は昼食で先出のクループの方にお給料代わりにビールをご馳走になりました。
胃が上にあがっていたので食事はあまり出来なかったがビールは仕事の後の一杯でおいしく頂いた。
そのグループのお客さんたちはリマからロスを経由して日本へ、私はニューヨークを経由して日本だったのでリマでお別れをした。
今までは南米ペルーという国はまだまだ自分には遠い国と思っていたが、9日間だけではあったが目一杯動き回り沢山のものを見学しそして体験し素晴らしい経験を積めたと思う。
皆さんも是非ペルーに行く事をお勧めします。
山下 尚宏
2003年11月

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