ペルー・かつて栄えたインカ帝国の首都へ

ペルー・かつて栄えたインカ帝国の首都へ

去年に続いて、二度目の南米大陸、ペルーへ。
時差による睡眠不足や体力消耗が大嫌いな私が、一年もたたないうちに、また、この地球の裏側の大陸を訪れるとは!
こういう仕事についている事に感謝しなきゃと思いつつ、スペイン語のかけらもできない私が、こんな所までたいした不自由もなく来られてしまう、ツアー旅行=現地ガイドさん付きの手配の便利さに、改めて驚いてしまう。


旅行の直前は、いつものごとくばたばたと忙しく、2時間ほどしか寝ないで出発。ぐったりとコンチネンタル航空に乗り込む。乗り換えのヒューストンでは、アメリカ入国手続きをしなければならない。眠くてぼーっとしていた私は、入国カードに不備があり、入国審査の長蛇の列に2度並ぶはめになった。手荷物チェックでは、上着やブーツも脱がされた。係員の態度が命令っぽくて頭にくる。超大国になったはずのアメリカは、旅行者にとっては最も煩わしい、嫌われ者の乗り換え地になってしまったのではないだろうか。
夜中、リマに到着すると、日本人の出迎えの方がきてくれた。翌日クスコの予定だが、現在、クスコで開催されている中南米大統領会議のため、早朝便に変更させられてしまったという。5時発の便になったので、3時半に迎えに来るという。また、ほとんど寝られない!
翌日、というか数時間後にクスコに到着。迎えに来てくれたのは、サイディーさんという、女性のガイドさん。大統領会議のため、車が市内に入られず、途中から徒歩でホテルへ。オテル・ロスアンデス・デ・アメリカ。クスコに多いコロニアル調の古い建物で、内側には、パティオと呼ばれる吹き抜けのガラス天井の中庭がある。パティオは日当たりがよく、コカ茶(高山病にいいと言われる、コカの葉のお茶)が自由に飲め、ちょっと休んだりするのに、最高に居心地がいい。二階の私の部屋からは、そこを見下ろす事ができた。部屋も古い感じだが、暖かく心地いい。バスルームは清潔そうで、新しく取り付けてある華奢なガラスの棚が、かわいらしい感じだ。
聖なる谷
1時間ほど部屋で休み、聖なる谷と呼ばれる、ウルバンバ渓谷のピサック観光へ。天気も良く、写真を撮りながら進んで行くと、途中、工事で道が封鎖されている。2時間くらいしたら、通れるようになるという。「どうしましょうか」とサイディーさんが聞いてくる。「ここからピサックまでは?」「歩いたら40分くらい」なんだ、そんなに近いのか。「じゃあ、歩きましょう!」ドライバーさんには悪いが、私たちは車を置いて歩いて行くことに。ここに着くまでに、飛行機に十数時間座りっぱなしだったし、その前後もろくに寝ていない。体の循環機能がストップしそうなほどの体調だったので、歩きたかった。暖かい中、ウルバンバ川や段々畑や木々の説明を聞きながら、標高3,000mを忘れて歩き続けた。あっという間にピサック市場へ。
ここは、火・木・日曜が盛大なマーケットになる。今日は、外れていたので観光客もまばらだった。店に広げてある、鮮やかな暖色系で織った布がとても綺麗だ。こういう伝統的な民族模様、特に高い地に住んでいる民族の織り模様・色使いはとても似ている気がする。中国・雲南の方やネパール、ガテマラでもこういったのを見た。原色のきれいな発色は、太陽に近い所に住む人々にとっては、上:ピサック市場 下:市場で働く少女 ますます鮮やかに見えるだろう。
マーケットでは、子供も働いている。小さな女の子が、籠に焼き物の笛をいっぱい入れたのを持って売っている。「これは赤色、これは青色、これはリャマの絵、音も一つづつ違うの」と言って、笛の音を聞かせてくれる。「これは小さいけど、音もちゃんと出るの。ゴリラの絵なの」ペルーにゴリラがいるのだろうか?働く子供たちは、いやという程いろいろな国で見てきたけど、はにかみながら小さい声で説明してくれるその子が、とてもかわいらしく見え、ついついゴリラのを買ってしまう。
今日は土曜で、学校が休みなので子供がマーケットを手伝うのだと、サイディーさんが言う。本当にみんな、普段は学校に行っているのかな?そうある事を願いたい。
予定の時間になっても、置いて来てしまった車が来ない。仕方がないので、次の目的地、オリヤンタイタンボまでバスで行くことに。「バスは汚いし、あまりお勧めできないのですが」とは言うが、まあ問題ない感じだった。バスの中に売りに来たバニラのアイスキャンディは、お世辞抜きですっごくおいしかった!
ようやく、オリヤンタイタンボ遺跡に着く。
山の斜面に造られた段々畑 私は、よくない事なのだが、ここに来る前になんの予備知識も頭に入れてこなかった。(時間もなかったし。)なので、見て驚いた。ピラミッドのようにきれいに山の斜面に造られた段々畑。そして、それに隣接した宗教儀式などに使われる未完の石の神殿。その、石組みがすごい。レンガ積みのように間にセメントなど入れず、石だけを必要な大きさ、必要な角度に削りあげ、積んである。一つの大きさは、数十センチのものから、2メートルくらいのものまであるが、周りの石との組み合わせを計算して、窓や入り口やコーナーも計算して、削って積みあげ、建物になっている。見事だ。余分な装飾がなくても、正確な石組みは緊張感があり、美しい。
インカ帝国の首都であったクスコの郊外には、ここを含め、遺跡がいくつも残っている。
インカの時代では、石が主な建築資材だった。どんな大地震でも崩れることのなかったインカの石組み。それが、唯一壊されたのが、スペイン人の侵略によってだった。「ここの神殿のこの壁は、スペイン人に壊されました。下に、石が落ちています。」と、サイディーさんが説明する。何回も彼女が繰り返し言ったのは、「スペイン人は、ひどい事たくさんしました」ということだ。「スペイン人が来て、2年間で、6,000人のハーフの子供ができました」現在のペルー人、特に町に住んでいる人々は、元々この地にいたインディヘナと呼ばれる人とスペイン人の混血がほとんど。それが、今の、現実のペルーで仕方ないのだが、それをさらっと口にしてしまうとは。
今、ペルーの人のほとんどがスペイン語を話し、90パーセント以上が、スペインがもたらした宗教、カトリックを信仰している。見た目もスペイン人っぽい人が多い。自分の体の中にもスペイン人の血があるけど、「スペイン人はひどい」と言い続ける。どんな気持ちなのだろう。この国の最後の時代の文化・文明であった、インカの王を殺され、ありとあらゆる国中の黄金を強奪され、神殿を破壊されたのだ。
そして、まるで体験した昔を懐かしむかのように、「インカの時代は良かったです」をくり返す。農耕が発達しており食べる物がたくさんあったので、インカの時代には飢えという言葉が無かった。お金という物が無かったので、貧乏な人達というのがいなかった。奴隷もいなかった。小さな戦いがあっても、スペインのように、あんなひどい略奪をすることは無かった。
太陽や月や大地に神を見出して、崇めた。農業主体の生活だったので、大自然に耳を傾け、自然を恐れ、また、大切にした。天体観測をした跡も残っているが、こんな石の建造物の技術を持った彼ら、かなり正確なものだったのだろう。
クスコに帰る車の中で、さすがに眠気と疲れが出て、眠ってしまった。ホテルに着き、起こされた。ひどい頭痛、吐き気、しかもすごくだるい。やばい、これは高山病じゃないか!夜のフォルクローレディナーショーは絶対行きたいけど、一時間後だ。ちょっと休んで治るだろうか?部屋に入り、ブーツを履いたまま熟睡。サイディーさんからの電話で起こされたが、症状いっこうに回復せず。思いっきり寝不足で体調悪くしてきたわけで、これじゃあ、高山病にかかる実験に来たみたいなものだ。
ふらふらでショーの店に行ったが、食べ物はとても口に入れることはできない。
かわいい民族衣装のダンスを何種類か見て、その後、ペルー音楽のバンドが出てきた。ペルーのマントを着て、ケーナや縦笛や打楽器とかの、よく日本の路上でもやってるようなやつ。と、思ったら、大間違いだった。そのすばらしい音に眠気もふっとんで聞き入ってしまった。その音の繊細さは、バイオリンやハープにも勝るだろう。お決まりの曲になっている「コンドルは飛んでゆく」も見事に美しくアレンジされていて、鳥肌がたつほどだった。心から感動した。
全ての曲が終わり、「私達はCDの販売もしています・・」のような説明を始めたので、私は真っ先に手を上げ、買った。ジョージ・ハリソン似のかっこいいメンバーの一人がそれにサインをしてくれた。嬉しい!!もう、頭痛も吐き気も無くなっていた。高山病なんて、こんなものか。
3日目。いよいよマチュピチュ遺跡へ行く日。
クスコから、バックパッカー列車というのに乗る。標高3,300メートルほどのクスコから、山を越えて2,300のアグアスカリエンテスまで降りる。スイッチバックしながら、のんびり走る列車で約4時間かかった。この列車は、現在二種類あるうちの、ランクの低い方だが、特に問題ない。もう一種類のビスタドーメという列車だと、20分くらい早いらしい。途中、車内販売があり、コカ茶を飲む。車内は暖房がなく結構寒いので、温かいお茶がうれしい。この列車の乗客は、途中下車をしてトレッキングでマチュピチュを目指すバックパッカーが多く、アグアスカリエンテスに着いた頃は、がらがらだった。
私達は、お土産屋さんや小さなレストランが集まるこの村から、バスに乗り換えマチュピチュ遺跡へ行く。
観光客が並んでいる入り口を通り抜けて行くと、あの、空中都市と呼ばれる遺跡が━テレビや写真で何度も見た事ある、マチュピチュ遺跡が見下ろせる位置に出た。大きい。とても大きく、頑健に造られた石の都市。その背後の山、 ワイナピチュと合わせると・・荘厳という言葉が似合うだろうか。
何の説明も聞かなくても、これが、山の絶壁にとてつもない上、下:マチュピチュ遺跡労力を使って精巧に造られた、都市の廃墟というのは分かる。
ガイドさんの説明を聞く数人のグループがいくつかある。遺跡を見下ろせる段々畑に、座り込んだり、寝そべったりしている人達がいる。それでも、とても静かだ。周りを、雲をかぶったさらに高い山々に囲まれている。まさに時が止まったような静かな空間だ。チーチチ・・と鳴く小鳥の声。はるか下に流れるウルバンバ川の音。
ここに、しばらくいたいと思った。しばらく眺めていたいし、横になったら、とても気持ちよく寝られると思った。
インカ帝国が滅び、その後ここが発見されたのは、ほんの100年前。それからいろいろな研究がされ、様々な説が出た。スペイン人から逃れるために造ったこの都市には、一説には一万人が住んでいたというが、サイディーさんは、数百人しか住めなかっただろうと言う。
ここにも、あの見事な石組みで、農民・貴族・神官・技術者などのための様々な建物が造られている。罪人のための牢獄もあった。
この都市は、結局スペイン人には見つけられなかったのだが、インカの人はそうなる事を恐れて、ここを捨ててしまった。ここには、葬儀場と呼ばれる、人骨がたくさん発見された場所がある。それも女性や老人ばかりの。ここからの逃避の長い旅路が無理な人々が殺された跡らしい。そうして、身内のしまつをして、インカの男達は、アマゾンのジャングルに入って行ったという。
戦いもなく、廃墟となったこの都市。何百年でもびくともしないインカの石組みの建物も、実際には、たいして長い間使われなかったのではないだろうか。もったいないし、寂しい。今は遺跡となってしまったのだが、観光に来る人達が絶えることがないように・・人々からずっと忘れ去られないで欲しいと思った。
サイディーさんは、ひととおりガイドを終えて、先にクスコへ帰る。私は結局、薄暗くなるまで一人で遺跡を眺めていて、最終のバスでアグアスカリエンテスに帰った。
私の今回の日程は、大統領会議のために交通機関がいろいろと変更されていて、翌日は早く、アグアスカリエンテスを発たねばならなかった。
ビスタドーメ列車 一人で荷物を担いで駅へ。そこら辺にいる人達が、セニョリータ!なんたらかんたらと話かけてくる。別に、物を売りつけようとしている訳ではなく、「どこ行くの?手伝おうか?」という感じで。本当に親切で素朴な村だ。
帰りは、ここからウルバンバまでビスタドーメ列車に乗る。駅にはぎりぎりに着いたのだが、まだ発車しないので、駅の中で待っててねと、親切に案内してくれる。お客さんも少なくて、のんびりした田舎の駅だ。
しばらくすると呼びにきてくれて、指定席へ案内された。この列車は、窓が天井まであり、山々が良く見える。それに、今日は快晴!こんな天気の日にマチュピチュ遺跡へ行けたらいいのにと悔しく思いながらも、車窓を楽しんだ。
私の前に席に、ワシントンから来たという、老婦人姉妹が乗っていた。私が日本人だというと、大の日本びいきらしく、「この服はユニクロで買ったの」と、嬉しそうに話してくる。ウルバンバ川の川くだりをした事や、まだ私が見ていないリマ市内の博物館の説明をしてくれたりした。旅行を本当に無邪気に楽しんでいるのが伝わってきて、私も嬉しくなる。インディヘナの絵のついた、1ドルの記念コインを大量に持ってきていて、駅に止まる度に、地元の子供達にプレゼントしていた。それを、私にもくれた。
ウルバンバに着き、サイディーさんに再会。今度は車の中から、景色を楽しんだ。
しばらく行くと、大小の石が道を塞ぐように並べてある。スピードを落とし、路肩を走る。そういった障害物が、何度かでてきた。とげの生えた草木の固まりだったり、ちぎったサボテンだったり。その度によけて走るので、なかなか進まない。
「何なんですか?これ」「これは、農民のデモなんです」現大統領は、山の田舎の方へも道路を作るという公約を守らなかった、という問題が一つ。その他にも税金などの問題で、生活の苦しさを訴えているという事 上、下:農民によるデモ
だ。こういう行為そのものには、もちろん反対する気はないし、労働者にとっては大切な事だと思うが、えらい時に当たってしまった。障害物を避けて走れない時は、降りて、どける。私も石をどけるのに加わった。のろのろ進む。デモ集会へ向かう農民らを大勢乗せたトラックが追い越して行った。窓に何かぶつかる音。投石だ。
ついに、この道を進むことを断念し、引き返して違う道を通ることにした。
なんとかクスコへ戻り、一回、休憩のためにホテルへ帰ると、いつものように部屋へ入ったとたん、ぐっすり眠ってしまった。
人々の声で目が覚めた。この日は、外の道に面した部屋だったのだが、二階の窓から見下ろすと、大勢の農民がプラカードや旗を持ち、デモ行進をしていた。
ペルーはストなどが多いと聞いていたが、こんなものまでお目にかかるとは。後で聞いたのだが、この時期、ペルーでは公立学校教員のストも長引いていて、非常事態宣言が出ていた。
夕方、日が傾いた頃、またサイディーさんが迎えに来てくれて、サクサイワマンの観光に出た。クスコの町を見下ろせる、小高い丘にある、これまた巨大な石を組み合わせた神殿とも要塞ともとれる遺跡。疲れからか、標高のせいか、無性に横になりたくなり、サイディーさんに断って、遺跡の傍らの原っぱに寝そべって説明を聞かせてもらった。ここも、なぜかとても落ち着く場所だ。マチュピチュといい、ここといい、インカ帝国の遺跡の石は、何か不思議な力があるのだろうか?
サクサイワマン ここ、サクサイワマンでは、今でも毎年、太陽の神の祭り━インティライミが行われ、その時期には海外からも大勢の観光客が来るという。
土着の民の神様は、太陽にも、月にも、星・山・大地にもいた。その中でも最高の神として崇めていたのが太陽神だ。
現在のペルーの人の信仰は、残念ながらほとんどキリスト教らしい。そうすると、そのお祭りは、もう宗教儀式としての意味はなく、ただのショーなんですかね?と聞いてみた。すると、そうではないという。「私達は普段から、山の神様へも大地の神様へも祈っています」と。「クリスチャンなのに?」リャマ「私達は、キリスト教の教会へも行きます。でも、例えばどこか遠くへ行く時は、山の神様へ無事を祈ります。みんな、そういうふうにしています」なんだ、そうなんだ!インカの時代からの神様が、今も大勢の人々の中で生きているのが、なんだかとても嬉しかった。その複雑な混在がこの国なのだ。
その日の夜、今回の旅行の手配会社のリマ本社から電話があった。
明日はバスでプーノへ行く予定だったが、広がりつつある農民のデモの道路封鎖で、とても行かれる状況じゃないという。プーノを諦めてリマかクスコ泊にし、自由行動にしてくれないかと、申し訳なさそうに言ってきてくれた。私以外にも、何件もお客さんに電話しているのだろう。とてもわがままを言う気にはなれない。でも、選んでいいと言うので、迷わずクスコに泊まりたいと言った。街中を一人で歩く時間も無かったし、観光の間にちらっと目に付くいろいろなお店に入りたい衝動を、ずっと我慢してきていたのだ。
今回、突発的な日程変更もあり、ほとんど自由時間がなかったのに、思わぬところで希望がかなった!
サント・ドミンゴ教会 フリーになった翌日、いろいろとクスコ街中を歩き周った。サント・ドミンゴ教会だけは昨日連れていってもらったのだが、それ以外にも教会がたくさんある。インカ帝国の首都だったクスコだが、スペイン人によって破壊され、そして建物の石組みの上に、いくつもの教会を造った。聞けば聞くほどひどい話だが・・。頑健な石組みの大きな壁があり、その街角に、西洋ゴシック調の教会があったりする。しかし、500年たった今、不思議とそれが調和しているようにみえ、悲しくも美しい街になっている。教会もいくつか入ったが、純粋に芸術として、ため息が出るものばかりだ。アルマス広場に面しているカテドラルの中もすごい。これでもか、というほど宗教画や彫刻で飾られた祭壇が、ものすごく広い建物内に所狭しとある。クスコへ来て、ここを見ずに帰るのは、絶対に避けた方がいいだろう。
クスコの街並み何箇所か市内中心を観光し、後は適当にまっすぐ歩き続けた。町の中心が盆地のようになっており、外へ出れば出るほど、坂道や階段を上がって行くようになる。ただでさえ標高が高いのに・・と思ってぜえぜえ登って行くと、その傍らを子供が走って遊んでたりする。元気だなーと感心。両脇を白い壁の家々が続く迷路のような道を歩き疲れ、また町の中心へ12角の石下りてきた。途中で日当たりのいいベンチを見つけ、つい横になり寝てしまった。(なぜだか今回の旅行は、疲れるとすぐ寝てしまう)目が覚めると、左側にインディヘナの衣装を着た、物売りのおばちゃんが座っていて、右側にきちんとした身なりの男性が座っていた。男性が私に話しかけてきたが、言葉が通じないのが分かると、「クスコは好きですか?」と、私より片言の英語で聞いてきた。私がにっこり笑って、綺麗だし大好きですよと答えると、安心したように立ち クスコの食堂にて去って行った。おばちゃんも、にこにこしながらケチュア語(?)で何か言い、また、立ち去って行った。もしかしたら、私は具合悪くて倒れていると思われたのだろうか・・?
とにかく疲れがとれ、また歩き始める。お昼時だったので、何かを煮込んでいる食堂からいいにおいがしてきた。手招きされるままに入ると、やわらかく煮込んだ豚肉・じゃがいも・ペルーの大きな粒のとうもろこしなんかをお皿に盛ってくれた。お腹いっぱいに食べ、これで完全に元気回復!その後、街中のいろいろなお店を見始めると、夢中になって歩き周ってしまい、アルパカのセーターや靴下や、いろんなお土産を手に入れた頃には、また、くたくたになってしまっていた。
すっかり暗くなった頃、中心のアルマス広場に来た。実は、クスコフリーの私の喜びの五割は、アルマス広場の夜景がじっくり見られることだ。何日か前の夜間、車でここを通った時、ちらっと見えた夜景の綺麗さに、ぎゃっ!と叫びそうになった。普通、夜景というと、高い所から見下ろすのが多いが、ここは逆だ。広場を囲むライトアップされた建物の後ろを見上げれば、今日、私が歩き周った、山の上の家々がある。それが今、山に宝石を散りばめたようになっている!なんて綺麗なんだろう!寒いのを我慢しながら、一人でにこにこしながら広場を歩き周り、心行くまで夜景を堪能した。
結局、クスコに合計3泊し、6日目にリマへ戻ってきた。
滅びたインカ帝国の首都だったクスコは、美しさと残虐さを凝縮したような強い印象だったので、リマの大都会へ来ると、夢から覚めたような感じがした。
また、リマのガイドさんと教会や市庁舎の観光に出たが、車の乗り降りさえ、おっくうに感じてしまった。海に面したこの町は、標高の高いクスコと比べるとかなり暖かく気持ちいいのだが、リマ特有だという霧がちな曇り空が、おっくうさに拍車をかけた。
最後の日は、ナスカの地上絵の観光だ。リマからイカという所まで飛行機で行くと、地上絵遊覧用の飛行機が何機も置いてあり、各国から来たお客さんが遊覧飛行の順番を待っている。お茶を飲んだり、地上絵の説明のビデオを見ながら、待つ。この地方はとても暑く、ティーシャツ一枚で充分だ。ついおとといまで、セーターにジャケットを着ていたのに。
しばらくすると、係りの人が呼びに来てくれ、12~3人乗りくらいのセスナ機に乗せられた。ここから、30分くらい飛んで、地上絵のある上空までくると、左右の窓から見えるように、激しく旋回してくれる。高く飛んでいるせいか、思ったより絵は小さく感じたが、よく見えた。私は、自分より乗り物酔いをする人をめったに見た事がないくらい酔いやすいのだが、意外に大丈夫だった。カメラのファインダーを覗いた時だけ、ちょっと気持ち悪くなったが・・。
ペルーにはインカだけではなく、たくさんの文化があったのだが、この地上絵を残したナスカ文化は1,000年以上も昔のものだ。しかし、何の絵かは分かっても、何のためかは今だに分かっていない。子供の落書きのような絵や、幾何学的に図案化された絵が、巨大な大きさでいくつも地面に描かれているというのは、確かに異様だ。くるくるとシッポを巻いているデザイン画のようなサルの絵。美しい直線をたくさん引いて描かれたコンドル。口を開けたかわいらしい魚(クジラと呼ばれているらしい)。ユーモラスな絵も、何か特殊な意味がある気がして、考えさせられる。
上空からしかその形を確認できないというのは、当時の人が、空を飛んで絵を眺める機会があったのだろうか?それとも、天の神に捧げる絵だったのだろうか?
暖かいナスカの町の中で、のんびりと遅い昼食をとり、リマへ戻った。
いろいろ予定変更が多い旅行だった。
だが、不思議なほど、なんの心残りもなく満足していた。思い出せば、ワイナピチュに登る時間も削られてしまったし、プーノのチチカカ湖にも行かれなかったのだが。それでも、ああ、楽しかったな、という気持ちの方がやっぱり大きい。やっぱり今回も、いい旅行だったんだろう!
あと、今回の旅行中は、なぜか日本人にとても縁があった。
今までは、海外で他の旅行者の日本人と挨拶する事はあっても、会話をする事はあまりなかったと思う。特に避けようという意識があった訳ではないが。
空港やその他の場所で声をかけてきた人や、観光でいっしょになった人に、今回の私はついのってしまい、話し込んだりした。
南米の隣国に語学を学ぶために住んでいるという人。仕事が忙しく、日本から2泊で来たという人。クスコの町が気に入って、10年前から住みつき、商売をやっているという人。それぞれの背景があって、ここを旅行していたり、住んでいたりする。皆、短い時間の中でいろいろ自分の事を話してくれたが、誰もが、とてもいきいきと輝いて見えた。海外で見る日本人は、こんなに輝いて魅力的なものだっただろうか?私はどんな風に映ったのだろう。
帰り、ヒューストンで乗り換えを待っている時、また話しかけて来た日本人の女性がいた。食事を誘ってきたのだが、あまりにも眠くて疲れていて、お腹もすいていないので、最初、断った。すると彼女は、立ったまま話し始めた。彼女を見ていると、私もしゃべりたくなってしまい、「やっぱり私も、ご飯食べようかな」と、ついつい言ってしまった。
物価の高いアメリカの空港で、10数ドルのハンバーガーセットを買い、食べながら話した。南米大陸を、いかに周遊してきたか。こんな人に会った、こんなひどい目に遭った、国境はこうやって越えたとか・・。話している彼女を見ているだけで楽しかった。
旅行は不思議なことに、贅沢していい思いしても楽しいし、つらい目や大変な目に遭っても、それを乗り越えると、これまた何とも楽しい思い出になってしまう。乱暴な言い方をしてしまえば、旅行中にアクシデントがあっても、ほとんどの場合、それはたいした問題ではなく、思い出になり得るいい体験なのだ。人によって感じ方の差はあるだろうが・・。
ここ数年、長期の旅行をしていなかった私は、仕事を辞めて、一ヶ月も独りで自力で旅をしていた彼女が、とても逞しく楽しそうに見えた。もちろん、宿が無いとか交通手段が無いとか、苦労も絶えなかったろうが、そんな事が一ヶ月間も出来るということ自体、相当に贅沢なのかもしれない。
学生の時、そんな旅行をしたのを懐かしく思い出した。現地の予約も知識も全く無く行ったケニア。友人は疲れと日焼けでぐったりしていたが、私は物珍しい街並みや、日々の宿やローカルバスにわくわくしていた。「アフリカの水を飲んだ者は、またその地に帰る」という、何かに書いてあった言葉を信じ、水道水や海水をがぶがぶ飲んだりしてた。しかし、あれ以来訪れていない。いや、まだ行っていないだけで、いつか必ずまた、行くのだろう。
結構、いろいろな国へ行った気がするが、まだまだ行きたい国や、もう一回訪れたい国もいっぱいある。
なんでこんなに、あちこち行きたい欲求が出るのだろう。
もちろん、きれいな景色を見たり、小さい頃から憧れていた遺跡を目の前にした時の感動もある。違う世界というのは、それだけでいろいろな刺激があるし。異質なものをちょっとでも理解できた時に、自分の日常がどんなものだったのか気付いたりもする。
旅行中は、時間の流れ方がいつもと違う。ほとんどの場合、普段より時間がゆっくりに感じる。その中にいると、いつもと違う感覚が沸いてきたり、同じものが違って見えたりする。日々、せっぱ詰まって悩んでいた事がばかばかしく感じたり・・日々、気にも留めなかった事が大切に感じたり・・。
誰が付けたのか知らないが、このタイトルの「旅の悪戯」。旅がもたらす悪戯とは、まさにこういう、感覚が変わったり逆転したりする事なのかも。
もしかしたら、日常生活で時間に追われ、価値観が偏ってしまっている時よりも、違う世界を見ていろいろな好奇心が沸き、ゆったりした気持ちで周りを見られる状態の方が、正常なのかもしれない。
また、どこか、旅に出たい!
松永 恵
2003年5月23~31日

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