5月末、念願のパプアニューギニアに行く機会を得た。
パプアニューギニアが「発見」されたのは1950年代後半。オーストラリア統治時代、豪州の地方行政官がゴロカショー(各部族がシンシンを踊り続け競い合う祭り)を主催したことでパプアニューギニアの世にも珍しい部族の風習が全世界に知られることとなった。それでも発見されたのはごく一部の部族たちだけで、内陸部の地域では険しい山々やジャングル、マラリアが行く手を阻み、60年代まで欧米諸国に発見されることのなかった部族もいる。つまり戦争が終わり、日本が高度経済成長真っ只中の時代においても原始時代の生活をしているような人々がいたということになる。数十年ときを経た今でも、部族の伝統を守り続け特有な衣装やユニークなダンスを披露してくれる。
また彼らはその素朴さも失っていない。見知らぬ同士でも挨拶を交わす。部族抗争のあった名残か、敵意がないことを示す意味でも挨拶が日常となっているそうだ。もちろん観光客に対してもすべての人々が暖かい笑顔でむかえてくれる。外国人観光客と見るやふっかけてくる商売人や自己保身のために都合のいい嘘をつくガイドはここにはいない。
そして手付かずの自然、人の手が入っていない沿岸地域の美しいビーチやハイランド地方の山々。さらには極楽鳥やポッサムなど世にも珍しい動植物。各国を行き尽くしたダイバーや写真家がパプアには何度も訪れるという。一度来訪したらその魅力に取り付かれずにはいられない魅惑に溢れた国なのだ。
蛇足だが私とパプアニューギニアの出会いは10数年前の大学生時代。とある写真を見て衝撃を受けた。それはザ・ポップグループというイギリスの70年代UKポストパンク・ニューウェーブ期を代表するロックバンドのレコードのジャケットだった(もちろん私が後追いした時はCDだったが)。マッドマンの集団が奇声をあげながら今にも飛び上がらんばかりの写真だった。当時は「マッドマン」という言葉も知らなかった私は、スピーカーから飛び出すポップグループの粗暴で原始的且つリズミカルな音楽性にも驚愕した。グループ名と相反した商業主義からかけ離れた音楽性はマッドマンの写真と相まって私の心に突き刺さった。当時大学の休みに合わせてバックパッカーの真似事をしていた私は、いつかマッドマンのような文明がいまだ届いていないような民族に会ってみたいと思うようになっていった。
次なるマッドマンとの出会いは弊社に就職したとき。何気なくパンフレットをめくっていたときに、CDのジャケットと同じような姿の民族の写真が。マッドマンは一般な観光旅行でも出会えることを知った。(ぜひ「最後の警告」でググってみてください。)
いつかマッドマンに出会えることを夢見て旅行社に勤務し続けようやくこの機会を得ることが出来た。
私が旅した行程は下記の通り。
1日目 夜成田発
2日目 ゴロカ観光
3日目 ゴロカ観光
4日目 ラバウルへ移動
5日目 ラバウル戦跡観光
6日目 ラバウルにてシュノーケリング、その後ケビエンに移動
7日目 ケビエン観光
8日目 帰国
1日目 ホノルル気分
午後、伊丹空港から成田空港行きの全日空に乗り込む。
定刻通りに成田空港に到着。成田空港では全日空は第1ターミナルに到着。
荷物を受け取って国際線の搭乗手続きをしようと出発フロアに移動。
しかし今回利用するニューギニア航空は第2ターミナルだった。成田空港の無料ターミナル移動バスはあるものの第3ターミナルもできたことでターミナル間の移動に思ったよりも時間を要した。乗り継ぎ時間には十分猶予を持っていたので良かったものの成田乗り継ぎの際は国内線の到着ターミナルは要確認だと再認識した。
第2ターミナル内の無料のラウンジで時間を潰し、午後7時にニューギニア航空にチェックイン。ポートモレスビー到着後そのままゴロカに乗り継ぎだが荷物は一旦ポートモレスビーにて受け取るようだ。
成田の出国手続きを終え、出発ゲートへ。ポートモレスビー行きのゲートは71番。向かいの72番ホノルル行きと同じフロアになっており、明らかに行くお客さんの層とテンション違いがちょうど真ん中あたりでぱっくりわかれており、異様な雰囲気。ホノルル行きのお客さんはすでに自撮り棒なんか取り出してキャピキャピしている。一方でポートモレスビー行きは帽子を目深に被り静かに座っている人が多い。おぉぉ、すでに旅は始まっているなぁとその光景を見て興奮気味の私。
ほぼ定刻通りに機内へ乗り込む。期待した以上に立派なテレビがついており、日本の映画も数本あった。食事も美味しく満足。
2日目 モコモコ
約6.5時間のフライトの後、ポートモレスビーに到着。
入国審査はパプアニューギニア国民とそれ以外の国籍のビザ保持者とビザなしの3レーンにわかれていた。私はアライバルビザを取得するためにビザなし(アライバルビザ取得)の列に並ぶ。英文の日程表を見せるとなんと無料でビザ取得できた(2014年の初め頃から無料になったそうだ。また英文の日程表でなくてEチケットでも最後の出発日が確認できるものであればいいらしい)。
荷物検査は思っていたよりも厳しい。カバンの中はもちろんスーツケースも開けられる。入国カードの税関申告の欄に食べ物を持ち込んでいるか否かの項目があるので、なにか持ち込むのであれば必ず「はい」にチェックすること。他の項目は多額の現金を持ち込んでいるかどうかなど一般的には全て「いいえ」の質問ばかりなので食べ物の欄も「いいえ」にしそうだが、虚偽申告と難癖をつけられることもあるそうなので注意。
ポートモレスビーではPNGジャパン現地代表をしていらっしゃる上岡さんと合流。国内線にチェックインを済ませ、両替。1週間の滞在の場合だとは2万円はあったほうがいいとの情報を聞いていたので2万円を両替。
乗り継ぎ時間にかなり余裕があるため空港近くのゲートウェイというホテルに朝食を食べに行くことに。そのゲートウェイホテルの朝食が朝6時から開くそうなのでそれまで空港のベンチで上岡さんにパプアのことをいろいろ伺っていた。そこへ私と同じニューギニア航空に搭乗していたと思われる上岡さんとお知り合いの日本人の女性がいらっしゃった。上岡さんはその方を私に、旅行作家さんなんですよ、と紹介していただいた。あまり私は本を読まないため存じ上げず申し訳ないなぁと思っていたら、なんと私が空港の待ち時間で読んでいたパプアニューギニアについての本の著者の山口さんであった。出発前に電子書籍の中から今回の旅に役立ちそうな本をいくつか購入した中に山口さんの著書があり、ついつい読み入ってしまいパプアニューギニア到着前に読み終えていたのだった。私のような若輩者が上岡さんと山口さんというパプアニューギニアについての超エキスパートの方とご一緒出来るなんて幸運なことだろう。(実際、山口さんの作品はこの紀行文を書くのにもためになりました。ありがとうございます。)
ホテルでパンとコーヒーの朝食をいただき(20キナ、約1000円)、空港へ戻り国内線の搭乗手続き。国内線の荷物検査も結構厳しい。上岡さんにはありがたいことに搭乗ゲートまでお見送りしていただいた。
<ゴロカ>
パプアニューギニアの中で真っ先に訪れるべき町を挙げるのであればゴロカであろう。800を超える言語と多様な民族が存在するというパプアニューギニアおいて中には、観光客に神聖な舞踊を見せることは古代から伝承されたしきたりに背くこととしてタブー視する部族も数多いが、その点ゴロカでは奇抜でユニークな民族達の踊りと暮らしを手軽に垣間見ることができる貴重な村が多数存在する。その部族の中でも特に有名なのがマッドマンだ。およそ10キロもあると言われる大きな泥のマスク。全身には泥を塗り、まるで亡霊か精霊のような出で立ち。もちろん観光は少数民族だけではない。パプアニューギニア最高峰・ウィルヘルム山登山の拠点であり、賑わいを見せる町中の青空市場、名産のコーヒー工場。そして一大観光地であるにも関わらずそこに住まう素朴でフレンドリーな人々にきっとあなたも魅了されるはず。
ポートモレスビーからゴロカは約1時間のフライト。
到着したゴロカの空港はこれまで旅した中でも、これが本当に空港?と聞きたくなるほどの小屋のような建物。もちろん荷物を受け取るベルトコンベアはないので空港のスタッフがテーブルの上にどんと置き、一つ一つ渡していく。素朴だなぁ。
ゴロカの空港ではPNGジャパンのゴロカ支店の見形さんがいらっしゃってくださった。ゴロカの街は空港を中心に広がっており、すぐ近くにスーパーマーケットに携帯電話ショップや銀行、郵便局さらにラジオ局がある。空港を中心に街が形成されているのは飛行機が主な交通手段だというパプアニューギニアならでは。
ポートモレスビーの空港付近は全く見かけなかった赤土と緑の山々のコントラストと人々のエネルギー溢れるカオスな雰囲気をゴロカではすぐに感じられ、パプアニューギニアに来たことを実感した。
空港から車で約2分のホテル、パシフィックガーデンホテルにチェックイン。
<パシフィックガーデンホテル>
ゴロカの中心部に位置する自然に囲まれたロッジ風のホテル。ゴロカ周辺の部族をモチーフにしたアート作品が展示されておりなかなかお洒落。広めの室内にはテレビに冷蔵庫、湯沸し器、アイロン、ドライヤーがあり、いたって清潔。室内で無料のWIFIもあるが速度は遅い。バスタブはなくシャワーのみ。水圧は強くないがお湯は比較的すぐに出た。スリッパやセーフティーボックスはなかった。レストランではソフトドリンクはもちろんビールもあった。食事も美味しい。
しばらくホテルでシャワーを浴びて休んだ後、昼食のジンジャービーフ(30キナ、約1500円)を食べて、午後の観光に出発。
<グルポカ山ハイキングとモコモコダンス>
ホテルから唯一の舗装された道を走ること約20分。赤土むき出しの脇道の前に車を停める。ここが村の入り口だとは、一般の通りすがりの人たちには分からないだろう。
車を降り乾燥した土埃が舞い上がる道を歩くこと数分、グルポカ山の麓にあるコレコレト村の村人たちの姿が見えてくる。
村人たちにアピヌンと挨拶すると向こうも柔らかい笑顔であいさつを返してくれる。パプアニューギニアの公用語ビジン語の挨拶「アピヌン」とはアフタヌーンが訛った言葉らしい。なので基本英語が元になっており簡単な英単語さえわかればなんとなく現地の人ともコミュニケーションが図れる。
村ではこれからグルポカ山を案内してくれるという部族の少年がすでに伝統的な出で立ちで我々を待っていた。大事な部分を守るためのバナナの葉っぱで作ったまわしをつけている以外は裸で、全身には泥や炭で描いたボディーペイント。否が応でも期待が高まる(何が?)。
コーヒーやバナナ、サツマイモの農園のある山道を抜け、急勾配の坂道を登ること数十分。途中、生贄を捧げるために使ったとされる岩場がある。村から豚や人間をこの山の中腹まで連れてきて殺してその頭を岩の上に置くことで、神からのパワーを授けられると信じられていたそうだ。また人食を行ったと言われる洞窟もある。カニバリズムについて話にはよく聞くことはあるが、ここがその現場ですと言われると、俺生きて帰れるかなぁ、となんだか暗い気持ちになった。山から帰ったら食事の準備なんかしていて、今日の食材は「俺」だったりするのかなぁとマンガみたいなことを考えた。
畑の農作物や途中の説明を聞きながらゆっくり山を登ったので、トータル1時間ほどだろうか、頂上に到着した。グルポカ山の頂上には十字架があり、カトリック信者が多い現在はお祈りの場としても使われるそうだ。頂上からはゴロカ一帯の、険しい山並みの連なる壮大な風景を一望できる。なぜゴロカからポートモレスビーまでの幹線道路が敷かれておらず、飛行機での移動手段がメインなのかが理解できる光景である。
下山して村に戻ると、次はモコモコダンスを見せてくれるという。モコモコダンスとは何だろう?と思いながらも村の広場まで連れてこられ、木製の手作りベンチに腰掛けてしばらく待つ。広場の中心では焚き火がパチパチを音を立てて煙が上がり始めた。そうすると煙の奥から全身ボディーペイントの仮面をつけた戦士が現れた。両手には槍のような武器を持っている。ダンスといっても機敏な激しいものではなく、身体を上下させたり槍を突き上げて小走りしたりするのがほとんど。徐々にこちらに近づいてきて、小声でモコモコ言っていることに気づいた。モコモコモコモコ…..モコッ!!…. モコモコモコモコ…..モコッ!!と時々何かを思い出したように後ろを振り返る。そのするうちに別の戦士も集まり大所帯になった。大人数になっても踊り方は先ほどと同じ。仮面の戦士が中心となって皆口々にモコモコ言いながら身体を上下に揺らし小走りする。
モコモコダンスは部族闘争の戦いから村に帰還した男たちが、祝いの踊りとして行うそうで、男女の出会いの儀式の意味もあるそうだ。勇ましさというよりも我々旅行者から見ると可愛らしさを感じるかもしれない。
モコモコダンスを楽しんだ後は村人ハンドメイドのお土産を物色する。パプアニューギニアのカバンとして知られるビルムや貝殻のネックレスなどが売られていた。こういう観光地ではかなり商売熱心だったりするものだが、パプアニューギニアの人々はあまり押し付けがましくなく、何も買わなくともフレンドリーな笑顔を振りまいてくれるのが嬉しい。素朴な人々にあって私の心も洗われたような気分になってコレコレト村を後にした。
町中のスーパーマーケットに立ち寄り、飲み物を購入してホテルに戻った。
夜はホテルのレストランでヒレ肉のペッパーソースステーキ(50キナ 2500円)とビール(10キナ 500円)で夕食。
この日私の頭のなかはモコモコモコ・・・と、つい口からでそうなほどモコモコダンスのことが忘れられなかった。
3日目 ザ・マッドダンス
朝8時半に朝食。イングリッシュブレックファースト(38キナ 1900円)。
9時にガイドさんと合流して観光に出発。
この日はマッドマンダンスとシンブー地方の伝統文化を観光する予定だ。
まず向かったのは町中のマーケット。昨日ガイドさんにマーケットで写真を撮らせて!とお願いしたのだ。
マーケットで最初に向かったのはビートルナッツ売り場。日本語だと檳榔。台湾でセクシーなお姉さんが売っているやつというと知っている方も多いかもしれない。ビートルナッツを口の中でくちゃくちゃしながらマスタードの茎に石灰をつけかじる。口の中でこれらの3つが混じり合うとなぜか口の中で真っ赤になる。タバコのような嗜好品だそうで噛んでいるとフワフワとした陶酔感をえられるそうだ。口の中に溜まった水分をペッ、ペッと吐き捨てるため道のいたるところには赤い唾の跡が。景観的によろしくないので公共の場ではブアイ禁止の張り紙をちらほら見かける。私もトライしようと思ったが今から観光に行くのに口の中を真っ赤にしたくなかったのでビートルナッツを少しかじっただけで諦めた。
マーケットではダーツ屋さんも見かけた。町の人たちの数少ない娯楽の一つのようで数多くの大人の男性がダーツに興じていた。五本投げて規定の点数よりも良いスコアが取れたなら賞金や景品がもらえるそうだ。私もトライしたがまず的に当てるのが精一杯。それに比べ地元のおじさんたちはすべて的の中に的中させていた。うまいなぁ。
ゴロカのマーケットでは写真を撮っていると、いろんな人から俺もとってくれ、俺もとってくれと言われる。それを見たまた別の人から、俺をとってくれ攻撃が始まる。見形さんは申し訳なさそうな声で、消していいですよ、おっしゃってくれた。
マーケットを後にしてマッドマン観光に向かう途中、ハイランドハイウェイで最も標高が高いダウロ峠へ。標高は約2500m。ここまで来ると全く気温が違う。その後、ガイドさんの知り合いにハイランド地方の伝統的なお家を見せてもらった。ハイランド地方は標高の高さから朝夜は冷え込む。そのため円形のお家を作り室内の真ん中には焚き火ができるスペースがある。
<マッドマンダンスとムームー料理>
ついにこの時がやってきた。自分の目でマッドマンを確かめる時が!パプアニューギニアに来たのはこのマッドマンダンスを見るためだといっても過言ではない。
アサロ渓谷の村に到着。ゴロカで一番の観光地だというのに大げさな看板などは一つもない。村に入るとまずハワイでいうレイのような花の首飾りをかけてくれて歓迎してくれる。その後村の案内を受け、サツマイモやトウモロコシ、ババナ、レモンの農園や村の内部を一通り見学した。見学が終わるとマッドマンダンスの行われる広場まで連れて行かれる。
まず登場したのは弓矢を持った戦士。獲物を狙っているようでそろりそろりと近づいてくる。獲物を発見!と思ったら獲物は私のようで弓を引いて追いかけてきた。観光客のつかみはこれでOKなのだろう。
狩りのパフォーマンスのあとは火おこしのパフォーマンス。太い木の枝と木の皮の摩擦で、枯れ木にものの数分で見事に火をつけた。火おこしのパフォーマンスはこれまで何度か他の国でも見たが最も原始的な道具にもかかわらず短時間であったように思う。昨日のモコモコダンスと同様に枯れ葉に火をつけ煙がもくもくと上がるとマッドマンのシンシン開始。
煙の向こうから現れたマッドマン。動きはスローモーション。マッドマンの表情はそれぞれ個性的で怒っているような顔や笑っているような顔、おとぼけ顏や無表情まで様々だ。手には弓や槍、長く尖った爪に棍棒など様々な武器。焚き火の燃える音だけが聞こえる静寂の中、物音も立てずに迫り来るマッドマン。我々はこれらがパフォーマンスだと分かっているから少しコミカルに思えるがこれが日の暮れた時間帯に行われたらどうだろう。暗闇の中から現れた白いマッドマン達は神秘的で神の使いか自然の精霊のように感じられただろう。
マッドマンの成り立ちを説明しよう。部族闘争がさかんな時代、土地を奪われた部族がアサロ渓谷の沼地まで追いやられたところから始まる。沼地で偶然転んだ戦士。身体中が泥だらけになった。そこへ追いかけてきた敵対する部族はその真っ白な身体に驚いて、お化けだと勘違いして逃げていったそうだ。
昨日訪れたグルポカ山では生贄を捧げていた場所があったというから、ここに住む部族達は自然の中に神の存在を信じていたと考えて間違いはないだろう。彼らにとって自然や人間を超越した精霊や亡霊というものは畏怖の対象だったのである。
そのため マッドマンダンスと言いながらも、お化けなので音も立てないし動きもゆっくりなのである。モコモコダンスは戦士の踊りであり求愛の要素もあったからマッドマンのそれとはそもそも目的が違うのだ。
今度は暗闇の時間帯にマッドマンショーを見てみたいと思った。
マッドマン達と集合写真を撮ったあとはみんなでムームー料理。
ムームー料理とはイモや鶏肉、野菜をバナナの葉を幾重にも重ね、その上から焼いた石で覆い蒸し焼きにする料理である。イモや野菜はすべて地のもので来客や祝いの席では鶏肉や魚が入ることもあるそうだ。バナナの葉っぱの芳しい香りに誘われて美味しくいただく。パパイヤやパイナップルなどの果物も美味しい。
村の人々に別れを告げ、次なる目的地に移動する。
<シンブー地方の伝統文化観光>
マッドマンの村から車で数分。シンブーというゴロカのあるイーストハイランド州の隣の州の民族の伝統を伝える村がある。
村のガイドさんが村の中を一通り案内してくれる。例にもれずこの村も農園に溢れ、美しく手入れされている。
村の広場で最初に披露されたのが歓迎の踊り。これまで踊るのは男性ばかりだったので半裸の女性が出てきてびっくりした。紐状のスカートに、腕には花の飾り、首には貝殻のネックレス、頭には鳥のカラフルな羽。これまでの男性的なシンプルな装飾から一転華やかな衣装だ。
次に顔のペイントを実演してくれる。植物や泥など自然の素材でメイクをする。もちろん私もペイントしてもらった(割と現地の人がウケてくれるのでこのままホテルに戻るまでメイクはとらなかった)。
そして植物から繊維を取り出し糸を紡ぐ方法や弓矢の実演、伝統的な楽器の実演を見せてくれる。かつて楽器は仲間を呼ぶ手段として使われていたが今は携帯があるので、こういった楽器は悲しいかな、今つかうことはないそうだ。そして男女が互い違いに座って歌を歌うカリムレックというお見合いの儀式に参加し、最後に演者全てが集まってシンシンをして終了。
これにて今回のゴロカの観光は終了。明日はラバウルに旅立つ。
4日目 穏やかな人々
フレンチトーストの朝食(28キナ)をとったあと朝8時15分にホテルの入り口にて見形さんと合流。町中の空港へ。
この日はゴロカからポートモレスビーを乗り継いでラバウルへ。
ゴロカの空港にてチェックイン。通常だと国内線同士の乗り継ぎだとそのまま目的地(今回の場合はラバウル)までスルーでチェックインできるそうなのだがこの日はシステムダウンらしくポートモレスビーで一旦荷物を引き取って再度チェックインしてくれとのことだった。
見形さんと2日間お世話になったガイドのアレックスに別れを告げて一路ポートモレスビーへ。
約1時間のフライトのあと空港では現地人の係の方がお出迎え。荷物をピックアップして、ラバウル行きにチェックイン。ラバウル行きの出発まで約4時間あるので、初日と同様、ゲートウェイホテルのエアコンが効いたレストランで出発の時間までレポートを書いたり本を読んだりして過ごした。
ボーディングタイムの45分前にホテルから空港へ向けて出発。今回もお見送りのスタッフの方が搭乗するまで見届けてくれた。アナウンスはあるものの何を言っているか分からず、電光掲示板もないのでこうしてスタッフの方が来てくれるのは心強い。
ラバウル行きはゴロカ行きよりも少し広めの2-3の配列だった(ゴロカ行きは2-2)の配列。といってもゴロカ行きの方が便数が多い。
約1時間半のフライトの末、ラバウルにオンタイムで到着。飛行機から降りると海に囲まれているからか湿った生温かい空気がほほを撫でつけるのを感じた。到着した飛行機はラバウルに経由したあとそのままケビエンに飛び立つ。
空港ではこの日宿泊するココポビーチバンガローリゾートのスタッフが迎えに来ていてくれた。ラバウルではゴロカでは見ることがなかったヤシの木がたくさん並んでいた。ラバウルに関しては小説などで多少馴染みがあったのでここを拠点として日本軍がガダルカナル島での死闘を戦ったと思うと胸から込み上げるものがあった。
<ココポビーチバンガローリゾート>
ラバウル空港から約15分。ココポの町の中心部にココポビーチバンガローリゾートはある。ココポビーチバンガローリゾートはその名の通りブランチ湾のビーチに面した数棟のバンガローを要するリゾートホテルだ。レセプションは中央の建物で行う。バンガローは木製の温かみのある造りでかなり広め。天井にはシーリングファン、テラスからの眺めはパーシャールシービュー。バスタブ、ドライヤーやスリッパはないが冷蔵庫、セーフティーボックス、アイロン、湯沸かし器、エアコンも完備。室内ではWIFIは使えないがメインビルディングのロビーやレストランでは無料で使える。レストランからのビーチの景観も素晴らしく、リラックスしたひとときを過ごせること間違いなし。かつて福岡に住んでいたという日本語を話せる現地スタッフもおり何かと安心。
ホテルのチェックインを終えて、ホテル周辺をうろうろ散歩。ホテルに面しているビーチ沿いをあてもなく歩いた。
野生的な雲と山の形、それに重なるように生い茂った深緑、そして夕日に照らされて金色に輝く海。幻想的な風景が続く中、地元の人々や国内の旅行者が思い思いに過ごしている様子を眺めた。そこには戦争という言葉など微塵も感じさせない穏やかで幸せな笑顔が溢れていた。
ホテルに戻り夕食のガーデンサラダとフライドポテトを食べた(12キナx2)。
5日目 ジロー戦
朝8時半に朝食のトーストとフルーツを食べてロビーに集合。
英語のうまいローレンスとかつて香川県に住んでいたという日本語は下手だけど気のいいガイド、チャーチルの二人のホテルスタッフと一緒にラバウルの戦跡を巡った。
<ラバウルの戦跡観光>
ラバウルはパプアニューギニアの北東部に浮かぶ、ニューブリテン島の北部に位置する小さな港町。ヤシの木が生い茂るトロピカルな植物相とタブルブル火山、ブルカン火山など噴煙を上げる光景はまさに映画の世界のようだ。このラバウルは第二次世界大戦時に日本軍が南太平洋諸島への侵攻の一大拠点としてガダルカナルの戦いなどに挑んだことで知られている。連合軍の最新鋭の兵器、豊かな物資と豊富な人員を前に日本軍はただ消耗を強いられ疲弊していくなか、輸送路を断たれた日本軍になす術はなく、終戦まで連合軍に占領されることはなかった。そのため町の中には戦時中のバンカーや爆撃機など貴重な戦跡が状態良く数多く残っている。
ココポ戦争博物館
展示の中で大部分を占めるのが第二次世界大戦時に日本軍が残していった軍事品の数々。戦車に高射砲、大砲、飛行機のエンジンにコクピットまで。ラバウル中に散らばっていたものを集めてきたらしい。中でも目を引くのはゼロ戦の綺麗な残骸。思ったよりも小さい。ガイドがゼロ戦のことをジロー戦、ジロー戦と呼ぶのでまさか設計者の堀越二郎への敬意からゼロ戦をあえてジロー戦と呼ぶことがここでは一般的なのか、と思ったがただ訛っていただけだった。
ブルーラグーン(又の名をワーフトンネル)
青く透き通った入り江のそばにあるトンネルで、かつて日本軍が食料を備蓄したり生活する場としても活用したそうだ。奥にはさらに深いトンネルがあり別のトンネルとつながっている。いまはコウモリたちの巣窟となっている。
艀の格納トンネル(又の名を大発トンネル)
波止場と本船の間を往復する小型船の格納庫。奥は暗闇となって見えにくいが5隻格納しているらしい。特に一番手前のトンネルから見える艀は状態が良い。
ラバウル旧飛行場
かつて日本軍が使っていた東飛行場。1990年代の相次ぐ噴火により都市機能を北部のラバウルから南東に約20キロ離れたココポに移転した。空港も同様で今は全く使っておらずそのためさら地状態。近くに爆撃機の残骸(連合軍からの通称から現地の人々からはBetty Bomberとも呼ばれている)がある。苔むしたその姿からはかつての殺戮兵器だったころの面影はなく、むしろ芸術的な気品さえ感じられる。
南太平洋戦没者の碑
日本政府とパプアニューギニア政府が共同で建立した、南太平洋で命を落とした戦士たちの記念碑。シンプルなつくり。
ヤマモトバンカー
海軍司令部の地下壕。連合艦隊司令長の山本五十六がブーゲンビル島上空にて撃墜されるまでここで指揮をとっていたそうだ。中は10畳くらいの広さのスペースで幾つかの司令室らしき小部屋に枝分かれしている。じっとしているだけで汗が出てくるくらい蒸し暑い。
ニューギニアクラブ
ヤマモトバンカーのすぐ近くには日本軍の士官食堂だったニューギニアクラブがある。現在はオーストラリア軍、ドイツ軍、日本軍の資料館となっている。もともとはドイツ統治下時代の建物で現在は90年代に改築されたもの。
その後、ラバウルの町のメインストリートであったという大通りに未だ一軒だけ営業しているというラバウルホテルにて昼食。ラバウルホテルのレストランはチャイニーズコロニアル的な内装で、食事も鶏肉とインゲンなどの野菜炒めで中華風だった。
集合時間まで少し時間があるのでテレビを見る。パプアニューギニアのテレビチャンネルは一つだけであった。そのテレビ番組では中学生くらいの算数の授業を中継していた。内容は半径7cmの円の面積を求めよ、など幾つかの問いがあり各2分の制限時間が与えられる。時間になるとクラスの生徒が先生にあてられる。昼間に誰が見るんだこんなテレビ。
昼食の間、雨が一気にザザぁとふってきた。すぐに弱まったが午後からは小雨が降る中の観光となった。
昼食後、ラバウルのマーケットをそぞろ歩き。売っているものはゴロカとあまり変わらない。変わったものとしては巻きスカートのラプラプやタバコの葉っぱは細切れでなくて束で売られていたこと。
マルマルアン展望台
ラバウルのマーケットを車で山道を走ること10分。ラバウル全景を見渡せるスポットへ。火山の形が美しい。
スズキバンカー
ラバウルから約1時間、ココポを抜け、さらに南に悪路の中車を走らせる。誰もこないような寂しげな海岸沿いにスズキバンカーと呼ばれる掩蔽壕がある。終戦後、このバンカーの中からミイラが発見された。どうやら戦時中、このバンカーに隠れて敵の攻撃から身を潜めていたらしい。しかし爆撃による攻撃か、もしくは飢えによってなくなり、ミイラ化した遺体がこのバンカーから発見された。身の回りのものからはスズキという名前はわかったそうだ。ガイドブックやWEB上には細かい情報はなく、ガイドのチャーチルに聞いてもそれ以上のことは分からなかった。
ビタパカ戦争墓地
オーストラリア兵士の合葬墓地。日本のものよりよく手入れされている。
戦時中の日本の兵器や施設は日本では滅多に目にするとはないため私のような戦争を知らない世代にも興味深く見ることができた。しかし思ったよりも保存に関しては現地人に任せっきりなのが気になった。日本、そして全世界の負の遺産として状態よく維持できないものだろうか。特にゼロ戦や爆撃機の残骸など誰かが装甲をはがしたりすることもできなくはない。それに雨ざらしになっているので今後このままだと腐食が進んで原型をとどめられるのも時間の問題だろう。
ホテルに戻る途中スーパーマーケットに立ち寄って飲み物を買う。この日の夕食も昨日と同じガーデンサラダとフレンチフライ。
6日目 シャローゼロ
朝6時に起床。この日は半日シュノーケリングツアーに参加する。
朝食後、朝7時にフロントに集合。昨日と同じチャーチルと一緒にホテル面しているビーチへ。すでに小型のモーター船がスタンバイしている。
<半日シュノーケリングツアー>
ラバウルの海は美しい珊瑚礁と豊かな生態系を持つ世界屈指のダイビング・シュノーケリングスポットである。途中イルカ達の華麗な泳ぎで歓迎を受けながら、ホテルからモーターボートで移動すること約40分、ピジョン島に到着。その名の通り島の住人は鳥のみの無人島。ピジョン島は大小の2つの島からなり、島付近は潮の流れが良く、水質は大変クリア。手付かずの珊瑚礁やクマノミなどカラフルな魚達が突然の来訪者達を楽しませてくれる。浅瀬からドロップオフポイントまでバラエティ豊かな地形のためシュノーケリング初心者でもOK。お昼ご飯も持ってきてここでピクニックランチもいいだろう。
ラバウルの海の楽しみはこれだけではない。旧日本軍の南太平洋の一大拠点であった歴史から数多くの沈没船が未だ海底に眠っている。そのためダイバー達にはレックダイビング(沈没した戦闘機や輸送船などの難破船を見ることを目的としたダイビング)のメッカとして知られているのだ。その多くが海底の30mから40mなど初心者には難しい深さなので気軽には見ることはできないが、ラバウル新空港近くにシャローゼロ(shallow zero)と呼ばれる水深約3mに沈んだゼロ戦の残骸を見ることができるポイントがある。もちろんシュノーケリングでも、水面からもかつて世界最強と恐れられていたその雄姿を確認できる。
昨日と今日のラバウル観光でラバウルの歴史と自然を地上からも水中からも満喫したこととなった。
ホテルに戻ったのは11時。部屋に戻りチェックアウトの準備。
12時に部屋をチェックアウトした後はケビエン行きの飛行機に乗るため、午後3時までホテルのレストランにて休憩。
3時前にホテルをでてラバウル新空港へ。
ラバウル空港からケビエン行きの飛行機に乗り込み35分のフライト。
これまでよりも一層こじんまりしている素朴なケビエン空港に到着。
空港ではリセナンアイランドリゾートのスタッフ、野崎さんが迎えに来てくれていた。預け荷物を手渡しで受け取り、リセナンアイランドリゾートへ。
<リセナンアイランドリゾート>
ケビエン空港から車とボートで約30分。見えてくるのが緑のヤシの木に囲まれたリセナンアイランドリゾート。一目見てここがオシャレなリゾート島だと分かる人はいないはず。島内には高い建物だけでなく、街灯ももちろんない。電気はあるものの、雨水を再利用するためホットシャワーはなく自然の熱を利用したシャワーという環境に配慮したつくり。夜は静かな波の音が心地よく響き、朝は鳥の声で目覚める。一つの島に、それもたった7部屋しかない、まさに自然と一体になった感覚を体験できるリゾートと言えるだろう。
また見渡す限りの白い砂とペパーミントグリーンの海、貴重な青珊瑚の群生が目の前に広がる世界指折りの美しいスポットとして知られ、オーストラリアのダイビング雑誌では2012年から2年連続でベストダイビングアイランドにも選ばれた経歴がある。更には時には夕食には巨大なロブスターや牡蠣、刺身まで供されることもあるという。ダイバー、シュノーケラー憧れの島ありながら日本人スタッフもいるというお勧めの隠れ家的リゾートなのだ。
室内は可愛らしい、温もりのある室内には虫除けの蚊帳とシーリングファンがある程度のシンプルな造り。冷蔵庫、ドライヤー、スリッパ、テレビ、湯沸かし器などはない。WIFIはオフィス周辺であれば無料で利用できる。
夜7時に夕食を食べにレストランへ。
レストランではこんなに大きいの初めて見たくらいのロブスター。
結婚式場でも食べたことのない大きさに興奮。
7日目 牡蠣と海ブドウと私
朝7時半に朝食。トーストとシリアル、目玉焼き。
シュノーケリングギアをレンタルしてコテージの前のビーチにてシュノーケリングをして楽しんだ。
朝10時にホテル前のビーチからシュノーケリングツアーに出発。
<マングローブ牡蠣採りとBBQ&ラル島のシュノーケリングツアー>
まず向かうのはホテルからボートに揺られ約30分、マングローブの生い茂る島。ただ船に乗っているだけでは面白くない、移動中はルアーフィッシングしながらお昼のメインディシュを釣り上げるのがケビエン流。マングローブ林に到着。ここで目にするのが岩牡蠣ならぬマングローブ牡蠣。日本の牡蠣よりも大ぶりなマングローブ牡蠣はナイフで枝からこそぎ落とす。近辺の岩場では、これまた日本人の大好物、海ぶどうが自生している。食べる分だけの牡蠣と海ぶどうを仕入れたら、BBQの舞台ラル島へルアーフィッシングをしながら向かう。ラル島は徒歩5分で一周できるくらいのサイズの無人島。枯れ木を集め火をおこすところからスタート。ホテルから準備してきた食材をBBQスタイルで皆とワイワイ調理。牡蠣は生でも焼きでもお好みで。食後は腹ごなしに手付かずの珊瑚と多種多様な魚が溢れる透明な海でシュノーケリング。まさにケビエンの自然にどっぷり浸かったワイルドな体験だ。
リセナンアイランドに到着したのは午後4時過ぎ。
シャワーを浴びたあとはビーチへ赴き、暮れなずむ夕日を見ながらリラックスしたひと時を過ごす。
この日の夕食は大きな白身魚。
8日目 義務教育
5:50のポートモレスビー行きのフライトに乗るため、朝4時にリセナンアイランドを出発。野崎さんが朝食のサンドイッチを持たせてくれた。
ボートと車を乗り継ぎ空港へ。まだ真夜中の海上を高速で爆走するモーターボートはジェットコースターのようにスリル満点だった。
ケビエン発の飛行機は往路と同様、ラバウルを経由してポートモレスビーへ。同日で成田行きに乗り継ぐ予定だが、国際線へのスルーチェックインはできなかった。
ポートモレスビーに到着後、一旦ポートモレスビーにて荷物の受け取りと国際線のチェックインを済ませる。成田行きのフライトまでかなり時間があるのでPNGジャパンのエミリーさんがポートモレスビーにて簡単な市内観光をしてもらった。
<ポートモレスビー市内観光>
もし乗り継ぎに充分時間があるのなら是非ポートモレスビーでの市内観光をお勧めしたい。特にバードサンクチュアリと言われるパプア国内から珍しい鳥類を集めた公園は国内外の観光客に大人気。こじんまりした園内に放し飼いをしており、餌付けしているためパプアの国鳥である極楽鳥を間近で見られることも。
手付かずの自然と原始時代からの風習を守る民族がいる一方で、高度経済成長を遂げるポートモレスビー。ウォーターフロントエリアには大型スーパーマーケットが建ち、高層ビル群を建設中だ。パプアニューギニアの経済的な一面を知ることになるだろう。
観光終了後、空港に到着しドライバーさんからの見送りを受け、お別れ。
成田行きはほぼ定刻通りに出発。
8日間パプアニューギニアを旅して、人間の原風景というものがあれば、パプアニューギニアこそがそれそのものなのではないかという気がした。損得勘定などない素朴でフレンドリーな人々、そして自然を畏れ神のスピリットを信じ、借り物でない独自の文化をもち続ける彼らを見ると彼らが特殊な慣習・文化をもっているのではなく、我々が不自然な生き方をしている気がした。先輩社員のほめ言葉を借りるなら「義務教育にして日本人全員いかせたい」と思わせた国である。
本来の自分の心のありようを確かめるという意味で、心の洗濯をするには最適な国だと思う。人間はやっぱりいいね。
予算・物価・お土産
物価は日本と同程度か少し高い。食事の予算は飲み物込みで1回40キナ程度(2000円)。お酒を飲むのであれば1缶10キナするので多めに心がけよう。チップは不要。お土産はブルーマウンテンコーヒーの粉末パックが人気で1つ15キナほど。ホテルや外国人観光客が利用するお店では大抵ビザかマスターのクレジットカードが利用できる。
ネット環境
ホテルでは無料のWIFIが大抵利用できるが、速度は大変遅い。SIMカードは空港や町中の至る所に売られている。
治安
ガイドと歩く分には全く問題ない。しかし特に都市部(ポートモレスビー)では一人歩きは控えたい。もし行きたい場所があるのであればガイドやドライバーに相談しよう。地方(ゴロカなど)では一人歩きする場合には夜中や暗い時間帯は控え、高価なカメラや時計はせず、手持ちのお金もごく一部に心がけよう。
マラリア
ポートモレスビーやハイランド地方では不要。セピック川・フライ川流域ではマラリア予防薬の服用をお勧めする。またそれ以外の地域でも念のため服用をしたほうが確実だが副作用もあるため服用しない観光客も多い。その場合は虫除けスプレーや蚊取り線香、長袖・長ズボン、黒の洋服を着ないように徹底したい。
今回の旅行ではパプアニューギニア政府観光局の山田様、ニューギニア航空の鈴木様、そして文中にもお名前を出させていただいた現地にてご活躍中の皆様の御協力にて無事終えることができました。心より御礼申し上げます。
(2015年5月 橋本康弘)
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