今回の旅はベトナム

10月24日
今回の行き先はベトナム。ベトナム航空VN951便の成田発は10時ちょうど。8時集合なので7時半に着くべく成田へ向かった。東京発のベトナム航空のホーチミン行きは午前便が毎日、夕方の便が週5便の計週12便。ハノイ行きと合わせると週計18便がベトナムと直行で結んでいる。今日利用する951便はボーイング777。東京線のほか、オーストラリア線やパリ線の機材として主に用いられているそうだ。
チェックインのときに窓側をアサインしてもらい、この後出国手続きをするわけだが、日曜朝の成田は外国人の帰国客ラッシュで、どう見ても日本人よりも多かった。私の列の前後だけでもフィリピン人、韓国人、中国人などなど。目の前のフィリピン人は「♪さーよなーら大好きなひと~」と陽気に歌っていた。フィリピンでは、花*花が大ブームらしい。


出国手続きの長蛇の列を抜け、9時20分の搭乗時刻を待つ。日曜日発ということもあってか、搭乗ゲートで待つ人もまばらだった。いざ搭乗時間になり乗り込んでみると、3+3+3の9列配置で横1列に1人か2人座っているかいないかというくらいの空き具合。結局飛び立ったのは10時20分ごろ。B滑走路から離陸した。
「ベトナム航空で行く成田空港周遊見学ツアー」にならずよかったとホッとしている頃には右旋回を終え、窓下に空港全景を見渡しつつ東京湾に向かっていた。富士山を見つけるころに雲行きが怪しくなっていた。雲に隠れて富士山を見失ってふと真下を見ると火口がポッカリと。こりゃいいもの見たと思っていると程なくお昼ご飯が出てきた。焼肉丼をメインにシーフードのマリネ、茶そば、デザートにケーキという内容でした。
外の景色は雲に阻まれ、次に雲が晴れるときには琵琶湖が見えた。そのまま西へ伊丹空港、大阪ドーム、作りかけの神戸空港、明石海峡大橋、吉野川などなど次々流れてまた雲の中へ。宮崎、鹿児島あたりから映画の時間となり、朝も早かったのでそのまま眠ってしまった。
目 が覚めた頃にはベトナム上空に入っていただろうか。太陽が少し高くなった気がした。眼下には一面山がちの土っぽい大地が広がっていた。しばらくするとホーチミンシティーの街に差し掛かり、ホーチミン・タンソンニャット国際空港に14時10分にタッチダウンした。
ホーチミンの中央郵便局入国手続きを済ませ、荷物を受け取り、到着ロビーへ。そこにはレフォンツーリズムのトンさんが待っていてくれた。ドラゴンズの福留選手にそっくりの彼に今日から4日間お世話になる。
今日のお宿は統一会堂にほど近いチャンセリーサイゴンホテル。フロントで日本円からベトナムドンに両替を済ませ夕食と軽い市内観光をしてこようと外へ出る。ベトナムと言えど6時前ともなると陽はほとんど落ちていた。地図を片手にサイゴン大教会と中央郵便局を見に行こうと決めて歩き出す。ホーチミンの街は信号が少なく、バイク・車が入り乱れて走り、車道を渡るのも少し覚悟がいる。ホテルから15分ほど歩いてサイゴン大教会に着いた。ここまで人影がまばらだったが、ミサの時間だったのか教会の周りには人がたくさんいて少しホッとする。中央郵便局は教会のすぐ横にあり、教会に負けない異様に明るい光でライトアップされていた。
さ て、何を食べようかと地図を見ているとすぐそばにショッピングセンターがあることがわかったのでそこに行くことにした。そこなら記念すべきベトナム料理第一食目をハズレくじを引くことなく確実に気楽にありつけると思ったからだ。
ロッテリアやケンタッキーなど日本と何ら変わらないファーストフード店の入るフードコートを見つけた。カーネルおじさんが裸眼だったことを除けば・・・。
その一角にベトナム名物のフォーの店を見つけた。「地球の歩き方」にも載っている「フォー24」という店の支店だった。早速牛肉入りのフォーを注文する。鶏がらスープに細麺の浸かった丼とミントとか香草類の載った皿、甘味噌・辛味噌が盛られた皿がトレイに載って出てきた。香草から味噌から全てぶち込んですすってみる。
こ、これがベトナムの味か!
と一人で美味しんぼごっこをしたり、唐辛子に悶えつつも完食。私とベトナム料理との相性も悪くはなさそうだ。
ホテルでの飲み物を買い込み、ショッピングセンターを後にする。
改めて言うがホーチミンの街はバイクの数がハンパではない。だから、排気ガスの臭いが遊園地のゴーカート乗り場並みに酷い。ベトナム人にとって、オートバイは生活の一部なのだ。4人で1台のバイクにまたがる一家、スクーターにまたがり語りあう恋人たち。ちなみにホンダのスーパーカブがオートバイの中でも特にステータスが高いのだそうな。

10月25日
健康的5時起床。5時半にロビーに集合して、空港へ向かう。
コンダオ島に向かう飛行機は朝7時30分発。思ったより早く着き過ぎたようで、出発ロビーで暇を持て余していた。搭乗時刻になりバスに乗り込むが、それらしい飛行機が見えない。確かに小さな飛行機とは聞いていたが・・・。
ランプ内をしばらく走り、ターミナルの新築工事現場の陰に隠れてちょこんと止まっていた。
「何、あれ・・・?」
それはアントノフ38。ウクライナ製の26人乗りの双発プロペラ機だった。しかも登録はベトナム籍でなくウクライナ籍。
後でわかったことだが、年に数回メンテナンスのために生まれ故郷のウクライナに帰るらしく、その途上鹿児島やら新潟など日本にもちょくちょく立ち寄っているのだそうだ。
比べてみるとランプバスより小さいではないか!垂直尾翼が2枚というのがレトロ感を醸し出していて、機内は与圧されておらず、2+1の3列配置のベンチシートは離島の物資や急病人輸送にも使われるのであろう、座席が全て折りたためるようになっていた。ツインオッターかサーブ340あたりだろうという予想を見事に裏切られ、いかにも「離島に行きますよ」オーラをプンプンさせている飛行機でワクワクしてしまう。
小さな飛行機はウエイトバランスが相当シビアになると聞いたことがある。この飛行機も例外ではなく、後部の席から埋まるようにアサインされていたようだ。アオザイ姿だがキャビンアテンダントではなく保安要員も乗り込み、出発。物凄い騒音で「がんばって飛びまっせー」と言わんばかりの力強さを感じる。今日もまた朝の早さもあってすぐ寝てしまった。
小 型機ならではの小刻みな揺れを苦にもせず30分ほど寝ていただろうか。気がつくとコンダオ島が見えていた。
ホーチミンを発って1時間、程なく島の北端にある空港に着陸した。空港ターミナルは新築工事の真っ最中で、「たけしの挑戦状」に出てきそうなグリーンのプレハブの仮設のターミナルビルが建っていた。
コンダオ島はガイドブックの地図に島の名前くらいしか載っていないほどのまさに未知なる島。ベトナム本土から南東約80kmのところにあり、16の島からなり、合計の面積はおよそ75平方キロメートル。八丈島よりやや大きいくらいだろうか。またの名をコンソン島ともいい、コンダオがフランス流、コンソンがアメリカ流の読み方だという。
ところで、台風一つひとつに愛称が付くようになったが、2004年の台風3号にこの「コンソン」の愛称が付けられており、「ベトナムの歴史的な観光地の名前」と紹介されている。
田舎の駅の待合室のような到着ロビーを抜け、マイクロバスに乗り込みホテルに向かう。
まるで「土曜ワイド劇場」のエンディングのごとくバックにスタッフロールと竹内まりやとか高橋真梨子の曲が流れてきそうな、すぐ山の迫った海岸沿いの切り立った崖の上をバスは進む。ひとつ違うことと言えば海が気持ちいいくらい蒼かったことだろうか。
一転、森の中に入ってどんどん海抜を下げながらしばらく走ると再び海岸線に出て、程なくホテルに着いた。この「サイゴンコンダオリゾート」に今日と明日、 2泊するのだ。ホテルの目の前は漁港で、1キロほど歩けば、海水浴場もある。リゾートというより漁村というイメージが強かった。
しばし部屋で休憩した後、ホテルのレストランでお昼ごはんをとる。漁師町だけあってシーフードが主であった。白身魚のトマト風煮込みなどあって、意外と箸が進んでいった。
午後はホテルの周りを散歩してみた。
コンダオ島の海岸島で最も拓けている所とは少し離れているためはっきり言って何もない。海岸沿いにてくてく歩き、放し飼いにされたウシ君の写真を撮ったりしてみたものの、それくらいで時間が潰せるはずもなく、そそくさとホテルに戻ったのであった。
あとでホテルでレンタサイクルがあると聞き、借りればよかったとちょいと後悔。
夕方になり、海岸に人が増えてきた。何かが始まる訳でもない。でもみんな楽しそうだ。夕方の港は島民たちの社交場なのだろう。
そのうち漁港に留められた船に漁火が灯され始めた。漁船は赤・青・緑・黄など原色を多用してカラフルに塗られ、船そのものが大漁旗と化していた。港はまるでおもちゃ箱のようだ。白く塗られ「第八武蔵丸」などと名づけられるのが当たり前だと思っている日本人にとってはカルチャーショックであった。
空には月が浮かび上がり幻想的な夜だった。
10月26日
最初の予定では船に乗ってジャングルクルーズに出掛ける予定だった。しかし、クルージングするにはやや波が高いとのことで、中止になってしまった。コンダオ島でのメインイベントがなくなってしまい少々がっかり。
代わりに用意されたのは「コンダオ島内刑務所見学ツアー」であった。そう、コンダオ島はベトナム戦争時代の戦犯の刑務所が多く残る島なのだ。簡単に逃げられないように四方を海に囲まれた島に建てたという、大きさだけでなく島の目的まで八丈島なのであった。
朝 食を終えて、ワゴンに乗り込む。車はホテルの隣の戦争資料館へ向かった。写真とか実際に使われた兵器とかが並んでいて平穏な島の雰囲気とは裏腹に生々しい。ここでベトナム戦争やコンダオ島についての説明を受ける。
小池栄子似の年齢も自分とさほど変わらないであろうおねえちゃんがベトナム戦争について語るのだ。日本なら80、90歳のおじいちゃんおばあちゃんが語り部になるものと考えてしまいがちだが、よくよく考えてみればこの小池嬢は終戦前後の生まれではないか。そう思うと平和ボケしきった日本人にとってはとてもたくましく見えたのであった。
コンダオ島の刑務所見学ひと通り説明を聞き、ワゴンに乗って旧刑務所に向かう。我々の泊まっているホテルの真裏にあるこの刑務所はアメリカ統治時代に建てられたもので、内部は朽ちている上にリアルなマネキンが置かれてるもんだから戦争の恐ろしさとか以前に単純に気味が悪い。この後、「トラの檻」と呼ばれる牢屋の集合住宅のようなところを見たり、フランス統治時代の刑務所を見学したり、学生ゲリラの女性指導者の墓参りをしたりと海の綺麗さとはおおよそ釣り合わないこの島の凄惨な歴史に憂いたのでありました。
10月27日
早くもこの島を発つ朝がきた。朝食にはフォーをチョイスしてみた。ここのフォーは平打ち麺でまるで、きしめん。
ホーチミンシティへ飛び立つ飛行機は12時10分発。10時半の集合にやや時間があったのでやっぱり海岸沿いをふらふらしてみる。誰も知らないコンダオ島の視察が今回のメインテーマだった。それだけに昨日のジャングルクルーズの中止は残念でならなかった。この島の魅力の半分も見られただろうか。島の暗い過去も思い出し追い討ちをかけるように海辺でひとり反省会。
島を離れる飛行機も行きと同じアントノフ38。離陸のときはコクピットのドアも開けっ放しでパイロットの挙動が手に取るように見えた。フロントガラス越しの滑走路も見えて迫力満点。しかし、帰りのフライトは揺れに揺れ、怖さを感じるほどだった。そんな中アオザイ姿の保安嬢はすやすや寝てらした。まぁ起きてても何もすることがないんだろうが。もくもくと立ちはだかる雲の壁を抜ける頃に怖さも最高潮に達し、半分腑抜けてホーチミンシティ着。
ホ ホテルに荷物を置いてからホーチミン市内のホテルを何軒か見学して、レフォンツーリズムの事務所に寄せていただいたあと、トンさんとカンボジアのガイドの方と3人で夕食を食べにガイドブックにも載っている「クアンアン・ゴン」という店へ出掛けた。予約していただいていたのですぐ座れたが、人気の店だけあって帰る頃にはすごい待ち人数になっていた。
ここで3人がコミュニケーションをとったのはなんと日本語だった。我々のような島国から来たヨソ様にはなかなかピンとこないが、ベトナム語とカンボジア語はまるで違うらしい。本場のベトナム料理に舌鼓を打ちつつ3人でワィワィ言いながらホーチミン最後の夜は更けていった。
10月28日
高齢者的4時半起床。5時にロビーにてスタンバイして空港へ向かう。ダナンに向かう飛行機はホーチミン発6時半。
トンさんはシェムリアップに行かれるお客様をお見送りしなければならなかったので、空港のロビーでロクにお礼も言えずに別れた。
こんな朝も早よから空に飛び上がるってのはカラダがどうにかなるかしらん?などと余計な心配をしつつギリギリチェックイン完了し、そそくさと飛行機に乗り込んだ。機材はA320。私にとって意外と初めてのエアバス機。国内線ながら菓子パンやらゼリーの入った朝食のボックスが配られ、あっさり平らげた。
約1時間でダナンに到着。到着ロビーには今度はアンさんが待っていてくれた。ここからホイアンに向かう。ダナンからホイアンは車で1時間足らずの距離。
途中には五行山と呼ばれる大理石でできた山があり、道路沿いには石像がこれでもかというくらい並んでいた。このあたりの子供たちは学校で必ず石像の彫り方を習うのだそうだ。
ホイアンに着いてホテル見学をこなし、どうせならダナンのホテル見学も今日中にやってしまおうということで、もと来た道を再び戻る。
しばらく走ると我々の乗ったベンツワゴンは突然ストップ。おいおいベンちゃんどうした!とドライバーさんがいろんなところをいじっていても一向に直る気配はない。いつの間にかドライバーさんがどこかに行ったかと思うと、バイクの後ろに跨って缶をぶら下げて帰ってきた。単にガス欠だったのだ。無事ガソリンを得たベンちゃんは何事もなかったかのように再び走り始めた。
早 起き特有のおかしなテンションでダナンのホテル見学もこなし、昼食をとることにした。ダナン名物のミークアンの店に行くと言う。
ここでアンさんは 「ミークアンはダナンの名物で、丼の底に溜まったつゆを麺に絡めて食べます。日本で言えば伊勢うどんのようなものです。」と。
!!!
今、伊勢うどんと言いました?あんなどローカルかつディープな食べ物良くご存知で、と麺食らって、いえ、面喰らってしまった。毎年、三重県民の私にとって新年第一食目を赤福餅と争う伊勢うどん。
ダナンの伊勢うどんはどんなかなーとワクワクしながら店に入る。よく言えば庶民的、悪く言えば小キタナイ店内でしばらく待つ。伊勢うどんっていうだけでどす黒いつゆと白い麺のモノトーンを想像していると黄色い平打ち麺とゆでた海老と香草がカラフルに盛られた丼が出てきた。単に麺と具をつゆにからませるのが伊勢うどんに似てるというだけなのだ。アクセントにえびせんべいが添えられていて、砕いたピーナッツが香ばしく、あっさり平らげてしまった。
またまた来た道をホイアンに向かう。今日泊まるのは「アンシエント・ハウス・リゾート」というホテルでホイアンの日本人町とクアダイビーチのちょうど真ん中あたりに位置する。敷地内には約200年前の民家を改装したライスペーパー工場が建ち、まさにアンシエント。
中国風の外観とは裏腹に客室は天蓋付きベッドやらパソコンやらDVDプレーヤーやらあり妙に豪華。ウエルカムフルーツなんか盛られた日にゃワレワレ庶民は怖じ気づいてしまうじゃないか。
そうこうするうちに日が暮れ、夕食を食べにホテルの外をウロウロしてみる。一軒のカフェレストランを見つけ、入ってみる。
ちょっと前に「ベトナムでは1万円あればステーキが90人前食べられる」とテレビでやっていたのを思い出し、ステーキとホイアン名物のホワイトローズやらたらふく食べた。が、合計で5、600円ぐらいだったろうか。
ドンの桁とあいまってちょっとしたブルジョア気分になってしまうのだった。
10月29日
昨日に比べれば至極一般的8時起床。今日はミーソン遺跡とホイアンの街を見て歩くのだ。天気は相変わらずよかった。
いかにも遺跡がありそな田舎道を小一時間、車はひたすらミーソン遺跡に向かって突き進む。遺跡の入口の駐車場に着くと、日本のODAによるミーソン遺跡の資料館を建設しており、熊谷組の看板がデカデカと並んでいた。
入口からしばらく歩くと、ドンドコドンと太鼓の音が響いてきた。チャンパーの民俗舞踊の実演のようだ。青や黄色の鮮やかな衣装をまとったおにいちゃんおねえちゃんが太鼓や笛の音に乗せて踊っている。
驚いたのはその笛使い。見た感じ60歳くらいだろうか、ものすごい肺活量なのだ。ずっと見ていると1分近くブレスなしで吹き続けているではないか。かくしてうっかり山奥のビックリ超人ショーを見に来てしまっていたのであった。
ここからジープやらワンボックスカーに乗り込み、遺跡のそばまで行く。アンさんと二人でジープを待っていると同じくジープ待ちの日本人観光客の一団が近づいてきて開口一番、
「日本人でしょ?」。
私の顔はそんなにジャパナイズされてたのかとややガッカリ・・・。いや、かばんにアンパンマンのキーホルダーがついていたからに違いない!と決め付けた26歳男であった。
5分ほどジープで左右に揺られて、遺跡群の中心に到着。
ミーソン遺跡ミーソン遺跡とは、4世紀後半にこの地を治めたチャンパー王国の聖地であったものだという。ベトナム戦争の際に破壊された跡も生々しく残るものの、最も興味深かったのはレンガの接着方法で、20年前に補修した部分からセメントがはみ出して見た目にも汚くなっているのに対して、400年前に建てられた原型のままの部分はピッシリとレンガが詰められ、400年前という時間を感じさせないくらい綺麗なのだ。継ぎ目をどのように接着しているか未だに解明されていないのだそうだ。
帰り道、「フォーホイガーデン」というレストランで昼食を取る。
観光客が寄る店ということが周知されているのか、店の前には物売りの人々がたむろっていた。正直、心苦しいような鬱陶しいようなそんな気分になってしまう。
ここではホワイトローズやカオ・ラウなどひと通りのホイアン名物が食べられる。すっかりベトナム料理に舌が慣れきってしまっていたので何のためらいも無くカオ・ラウに喰らいついたその時。箸を置いて「参りました」と呟いて視聴者にサイン色紙をプレゼントしてしまいたい衝動に駆られた。その衝動の元が生のドクダミであることに気付くまで幾分時間がかかった。さすがに香草類とはいえ生のドクダミが入るなどという奇襲攻撃には耐えられず、箸で引きずり出してしまった。
この修羅場を除いては至って普通のレストランなのでご心配なく…。
おなかも程よく膨れてホイアンの日本人町見物に出掛ける。まず最初に日本人町のシンボルとも言うべき日本橋に向かった。日本橋言うてもコレドやら電気屋街があるワケではないですよ。
日本橋日本橋は正式名称を来遠橋(らいおんばし)といい、日本の資本と中国の設計により造られた物だそうだ。橋の真ん中には祭壇のようなものがあり、橋の一端には犬の像、もう一端には猿の像があるのだが、これは申年から戌年まで2年かけて完成したということを表しているのだとか。
ここでアンさんから受けた説明が「3年かかりました」ということだったので「?」ということになった。そういえば、トンさんの身分証明書を見せてもらったら私と2歳違いだったのだが、最初の話では1歳違いだったのでどうも話が食い違うなと思ったりもした。ベトナムではひょっとして年数はいわゆる数え年で数えるのだろうか。世界ふしぎ発見。
夕方まで部屋でひと息ついて、再び出かけることにした。ホテルで自転車を借り、もう一度日本人街を見て回ろうと思ったのだ。
♪レンタサイクルで走り出す~行く先も分からぬまま~地元民になれた気がした~26の夜… てな具合に気持ちよく走り出すはずが、すごいことに気がついた。ブレーキが前後逆なのだ。普段前輪が右手、後輪が左手というのが当たり前だと思ってしまっているので、他の自転車もそうなのかわからぬまま、慌てふためいた気がした26の夜。昨晩と同じ店で夕食を済ませて、日本人町へ向かった。
夜の来遠橋は淡く光が漏れ、カメラを向けずにはいられなかった。が、三脚なぞ持ち合わせるはずも無く、自転車のサドルで固定し(たつもりで)、妖しさを醸す町並みにレンズを向ける、アヤシさを晒すニホンジンが一人。結果は惨敗。。。
夜は夜でまた違うしっとりとした雰囲気をかもし出し、それでいて人が集まっていて賑わいを見せていた。市場も活気にあふれていて、夜も8時、9時くらいまで営業していただろうか。夏休みの夜店のようでワクワクしてしまった。
10月30日
ベトナム最終日のこの日もきれいに晴れてくれた。朝食を済ませ、昨日市場で買った海パンに履き替え小一時間、ホテルのプールでひと泳ぎ。前に泳いだのはいつだろうかというくらい久々に泳いだ。少なくとも5年は開いてたはずだ。もはや泳いでいるというものではなく泳がされてるといったほうがしっくり来る泳ぎっぷりで、目のほうが泳いでいたに違いない。
お昼前にチェックアウトを済ませ、荷物をホテルに荷物を預けたまま再び自転車を借りて出かけた。今日は昨日とは逆の方向に進む。日差しと風が心地よい。 20分くらい走るとクアダイビーチに出た。そこそこ暑い日だったのだが、ビーチは人影もまばらで、その大半はヨーロッパ系の観光客らしかった。地元の人は泳がないのだろうか。
しばらくビーチをほっつき歩いたあと再びもと来た道を戻り、ホテルも通り過ぎ、日本人町へ向かった。昼食はホイアン名物のカオ・ラウを「クアンアン42」という店でいただき、ショッピングにいそしむのでした。週末ということもあろうか、昨日以上の人出で活気に溢れていた。活気に押され、服、茶碗、 etcetc…、いつしか財布は開きっぱなしになっていたのであった。
提灯を手作りで作っている店があり、ひとつオーダーメイドで作ってもらうことにしたら、2時間ほどかかるとのこと。ひと通り買い物して回ったのでどうしようかと考えながら辿り着いたのは床屋であった。
「そうだ、髪を切ろう。」JR○海もビックリの突拍子の無さである。当時、ほどよく伸び散らかしていたので意を決して入っていった。店のおばちゃんも日本人の髪を切るのは初めてだ!と目を丸くしていた。もちろん、どう切ろうかなんて伝わるはずもないから、「おまかせ」で。
ほどなくするとトラブル発生。もともと髪質の固い私。そこへあまりメンテナンスをしてないらしいハサミは太刀打ちできなくなってしまった。おばちゃん、ありとあらゆるハサミを取り出だしたるもどれも刃、いや歯が立たず、最後はバリカンの登場でその場は収まった。
「おまかせ」で刈ったその髪型は上方よしお師匠には劣るとも勝らずも見事なカリアゲっぷりで、一瞬にして「ホイアンカット」という愛称が授けられたのであった。
そうして、ゴキゲンになった髪型を晒しながら、提灯を受け取ってホテルに戻る。ホテルのロビーで空港への送迎を待ちながら色々振り返っていた。
まだまだ少ないながらもこれまで行った国で一番馴染めた国だったと思う。食べた物、見た物、歩いた所。なにもかもがしっくりきて在り来たりだけど「初めてなのに懐かしい」というフレーズがピッタリなのだ。もっと居たいなと思った国は初めてのことだった。
どこか切ない気持ちのままダナンの空港に向かう。お土産物屋が2、3軒というやや殺風景なロビーで時間を持て余した後、搭乗待合室へ。テレビではトムとジェリーが放映されており、時間つぶしにはもってこいであった。
ホーチミンまでの復路も同じくA320。夜の国内線のグッタリ感は万国共通だなと感じつつホーチミンへ降り立つとスタコラサッサと国際線のチェックイン。あまり時間が無かったにもかかわらずしっかりマド側を押さえて帰路についたのでありました。
長谷川 大樹
2005年10月

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