ホーチミンからアンコールワットを目指して

ホーチミンからアンコールワットを目指して

雑貨天国のベトナムとアンコールワットのカンボジア。今回の旅はどんな出会いが私を待っているのだろうと、胸を躍らせ私は日本を出発した。


ベトナム到着
ホーチミンの空港で私を出迎えてくれたのは、現地ガイドのテーさんというお兄さん。今日はホテルまでの送迎のみ。3時ごろにホテルに着き、一息ついて早速街に出た。
ベトナムを訪れるのは2回目だが、ハノイしか訪れたことがなかったのでホーチミンは今回が初めて。同じベトナムでも、ハノイとホーチミンは全く雰囲気が違い、ホーチミンはハノイよりも都会だなと思いながら、人間ウォッチングをしつつぶらぶら散歩した。最も私がハノイを訪れたのはもう2年半も前のことなので、ハノイもきっと大きく変わっているのだろうとは思うけれど。ビニール袋に入れて売られていた屋台のフルーツジュースが、プラスチックの容器に入れられていた。こうやって便利さを求めて変わっていくのだろうけど、ちょっとさみしい気もする。発展していくことをさみしいと思うのは、全てが便利な日本で生活している私のエゴなのかもしれない。
夕食は地元の人で賑わう大衆食堂で。この食堂はバインセオ(ベトナム風お好み焼き)で有名らしく、野外に並んだテーブルは地元の人たちでいっぱい。さすが地元の人に人気があるだけあって、すごくおいしかった!満足、満足!!
ホーチミン市内観光
フランス統治時代に建てられた、中央郵便局やサイゴン大教会などの説明を聞きながらホーチミン市内をぶらぶら散歩観光。昼食はあのクリントン元大統領も訪れたと言う、“フォー2000”でフォー(ベトナム風のうどん)を食べる。フォーをおなかいっぱい食べたあとは、中国人街のチョロン地区を案内してもらった。ここにはベトナム最古の華僑寺の一つ、ティエンハウ廟がある。廟の天井から吊り下げられた巨大なうずまき線香がたくさんあったりして、なんだかここは不思議な雰囲気のお寺だった。ティエンハウというのは天后聖母の名前で、昔、中国人がベトナムに船で渡ってきたときに、大波や嵐などの困難な状況の中を、ティエンハウが守ってくれたお陰で無事にベトナムにたどり着いたという話があるそうだ。だから華僑の人たちは毎日仕事が終わると、商売繁盛や家族の健康と幸せを祈りにこの寺へやって来るのだと言う。 ここの人々 の信心深さがうかがえる。
QUAN NGONこの日の夕食はオシャレな雰囲気のレストラン“QUAN NGON”にて。初日の大衆食堂とは大違いだ。このレストランは、今ホーチミンで一番人気のあるレストランらしい。広々とした店内も、7時を過ぎるともう満席状態だ。家族連れやカップル、女性同士など、幅広く人気があるようだ。食後のデザートに食べたチェー(ベトナム風あんみつ)が、ものすごくおいしかった!
平和村とクチの地下トンネル
女医のタン先生ホーチミン市内にある平和村を訪れた。ここにあるツーズー病院には、ベトちゃん・ドクちゃんと、2人の分離手術を行った女医のタン先生がいる。ベトちゃんは寝たきりの状態だけれど、ドクちゃんは元気に、この平和村でパソコンを使って書類を作るなどの仕事をしている。小学生の頃、ベトちゃんとドクちゃんのことを学校で勉強した。体が結合している2人の写真、手術が成功して体が分離した2人の写真。あの頃見た写真のベトちゃんとドクちゃんは、ずっと私の脳裏に焼きついていた。そのベトちゃんとドクちゃんが自分の目の前にいることが、現実でないような気がして、なんだか不思議な感じだった。
ツーズー病院の男の子この平和村には、生まれて間もない赤ちゃんから、16歳ぐらいまでの子どもたち約60人が生活している。腕や足のない子どもや、両足・両腕の長さが違う子ども、目だけが大きく飛び出している子ども、様々な障害を持った子どもたちがたくさんいた。 これが全部枯葉剤の影響なのかと思うと、本当に本当に恐ろしくなった。戦争自体が終わっ てもその影 響 は何年も何年も残っている。この子どもたちが一体何を したと言うのだろう。子どもたちは、自 分が ハンディキャップを背負って いるにも関わらず、みんな元気に笑っていた。腕のない女の子が、足を使って描いた絵を得意げに私に見せてくれた。顔が歪んで口がきけない男の子が、「何才?」という私の質問に、駆けながら「8!」と指をいっぱいに広げて示してくれた。みんなどうしてこんなにかわいいのだろう!そんな子どもたちの笑顔を見ていると、戦争に対する言いようのない怒りと虚しさがこみ上げてきた。
クチの地下トンネル平和村を後にし、ホーチミンから車で約2時間。クチの地下トンネルにやって来た。ベトナム戦争当時に全て人の手で掘られたというこのトンネルは、総距離 250kmにも及ぶ長いトンネルだ。トンネル内は三段構造になっていて、中には台所や会議室、病院まである。トンネルは人一人やっと入れるぐらいの大きさ。私も実際に中に入って100mほど歩いてみたのだが、中腰になって進んでいかなければならず、たった100mという短い距離なのにすごくぐったりしてしまった。こんな狭いトンネルの中を、武器など装備した姿で進むのは並大抵のことではないと、当時の苦しい戦争の様子が目の前に浮かぶようだった。
その後クチにある忠烈祠を参拝した。ここにはベトナム戦争で犠牲になった、たくさんの人たちのお墓がある。「ベトナムの人たちは、この人たちの恩をいつも覚えています。」ぽつりとそう言ったガイドのテーさん。そのとき彼の目はどこを見つめていたのだろう。遠くを見るテーさんの横顔が、何とも言いようもなく印象的だった。
マングローブ林へ
マングローブ林ホーチミン市内から車でまず30分。そこから車ごとおんぼろ船に揺られて約20分。川の向こうにはホーチミン市が見えているのに、カンザーというその町は、ホーチミンとは全く違って貧しい雰囲気が漂う淋しげな町だった。そこから車でさらに進む。ふと辺りを見渡すと、一面の田園風景の中、私を乗せた車は走っていた。ぽつりぽつりと建つ家は全てわらぶきの屋根。のどかな景色にうとうとしかけたころ、いつの間にか周りの風景はマングローブ林に変わっていた。車を降りて、手漕ぎの小舟でマングローブ林クルーズ。見渡す限り、辺り一面がマングローブなのだが、昔はこの辺りには、もっともっとたくさんのマングローブが生い茂っていたそうだ。これもまた枯葉剤の影響で、ほとんどのマングローブが死んでしまったのである。戦争からは悲劇しか生まれない。改めてそのことを実感した。
ここで私は実際にマングローブの植林を体験することになっていたのだが、ちょっとした手違いがあって植林はできなくなってしまった。ガーン!せっかくタオルと軍手まで持って、汚れてもいい服装でやる気マンマンだったのに・・。残念・・・!
いざカンボジアへ!
ホーチミンから飛行機で1時間、アンコール遺跡群観光の拠点となる町、シェムリアップへ。そこで待っていたのは強烈な日差し。天気がいいのはうれしいけれど、この暑さの中遺跡を歩き回るのか・・・そう思うと一瞬クラッとした。
タプロームシェムリアップの空港で私を出迎えてくれたのは、日本人ガイドの雨宮さんと、アシスタントガイドのヴォーンさん。観光までちょっと時間があるからホテルで休んでください、という雨宮さんの心遣いにも関わらず、ホテルに到着して一息ついた途端、シェムリアップはどんな町なのかが早く見たいという興味心に駆られ、早速私はぶらぶらと散歩に出た。高いビルも何もなく(後から知ったのだが、シェムリアップには、アンコールワットの中央伺堂を構成する五基の尖塔の、最も高い真ん中の一基よりも高い建物を建ててはいけない、という決まりがあるらしい。)、ホーチミンから来ると余計にここは田舎だという感じがした。そんなことを思いながら歩いていると、空のペットボトルを探して裸足で歩く、2人の少年を見かけた。次々と観光客が訪れ、そのためにホテルやレストランがどんどん建設され、ここ数年できっと町は大きく変わっているのだろうけれど、そこに住む人々はまだまだ貧しい生活を送っているのだろう。裸足の少年に私が今してあげられることはない・・そう思うことがとても切なかった。
アプサラダンスを踊る少女さあ、いよいよアンコールワットへ!天気が良かったためか、アンコールワットはより一層の光を放っているように見えた。壮大な石造建築を目の前に、私は思わず一瞬息をのんだ。何もかもが計算し尽くされた建築、回廊の緻密な彫刻、そして世界最大というそのスケールの大きさにはただただ驚くばかりであった。アンコールワットまでは、舗装された道路をバスであっという間に着いたので、それが周りを密林で囲まれた遺跡だと感じることができなかった。だが、この後に登ったプノンバケンから見たアンコールワットは、まさに密林に埋もれる遺跡なのであった。すごい。もうその一言しか出てこない。
アプサラダンスの踊り子夕食の後、アプサラダンスを鑑賞する。「アプサラ」とは「天女・天使」とみなされ、この踊りは神への祈りとして捧げられるものである。頭や腕、足から指先に至るまで、繊細な動きの一つ一つに意味があるのだと言う。踊っているのは12~13歳ぐらいの子どもだったので、アプサラダンスはてっきり子どもが踊るものなのかと思った。実際は、子どもしか踊らないというわけではないが、12~16歳ぐらいまでの踊り子が多く、大人の体になってきたらアプサラの踊りは踊れないのだそうだ。目をキラキラさせて踊る子どもたちがなんともかわいらしく、印象的だった。きっと踊りが好きで好きでたまらないのだろう。昼間見た裸足の少年や、アンコールワットのおみやげもの屋さんで「これ安いよ」などと日本語を話す子どもたちの姿が頭によみがえる。あの子たちには夢中になれるものってあるのかな、あっても自分の好きなことが自由にできる環境ではないのかな、と。
アンコール遺跡群
バイヨンの観世音菩薩早起きしてアンコールワットに昇る太陽を待つ。時間とともに空の色が変わり、アンコールワットが姿を現す様は、なんとも言えず感動的であった。落ちていく陽を見ていると切ない気分になるが、昇ってくる陽は、「さあ、1日の始まり!今日も1日がんばろう!」という気にさせてくれる。太陽ってすごい。
アンコールワットの朝日に始まった1日は、アンコール遺跡群を観光。中でも私が魅力を感じたのは、アンコール・トムの中心にある寺院、バイヨン。ここには至る所に観世音菩薩の顔がある。どちらを向いても顔、顔、顔・・・。バイヨンのどの位置にいても菩薩の熱い眼差しを感じる。微笑をたたえた菩薩に囲まれ、落ち着いた雰囲気が漂っている。心が和むようであった。
バンテ・アスレイ午後は「東洋のモナリザ」、バンテ・アスレイへ。この遺跡は規模こそ小さいが、彫刻は彫りが深く、保存状態も極めてよい。緻密で洗練されたその彫刻は、今までに見てきたアンコール遺跡の中でも群を抜いて美しい。現在は遺跡保護のため、中央祠堂周辺はロープが張られ立ち入り禁止となっている。そのため間近で見ることはできないのだが、離れた所からでもその美しい彫刻には魅了される。
密林に眠る巨大寺院、ベンメリア
密林の巨大寺院ベンメリアシェムリアップから車で約2時間。現在まで全く修復がされず、発見されたままの姿で密林の中にひっそりと眠る巨大寺院がある。それがベンメリアである。アンコールワットや他の遺跡群と違い、人も全くおらず、本当にひっそりとして静かな所だった。さすが手つかずの遺跡、ごつごつした岩たちを渡り歩いての遺跡観光で、ちょっとした冒険である。ここベンメリアは、アンコールワットを建てたスールヤヴァルマン二世が建てたということで、アンコールワットと似ている点が多く、「東のアンコール」とも言われているのだそうだ。遺跡の中や周辺にはまだ地雷が多く残っているし、崩壊も進んでいるため歩けるところは限られている。他の遺跡のようなレリーフはほとんどないので、見る人によっては物足りないかもしれない。しかしベンメリアが建てられたその時から、ここには誰の手も加わっていないのである。『平家物語』の「奢れる人も久しからず ただ春の夜の夢のごとし」、このフレーズが頭をぐるぐる回る。当時の人々の生活がなんとなく想像できるようである。これぞ遺跡!という感じだ。
ベンメリアを修復するためにはまず地雷撤去から始めなければならず、しばらくは修復されずこの状態のままだろうということであった。遺跡を残していくためには修復されなければいけないのだが、私は、ここは誰の手も入らず、ずっとこのままだったらいいのに、と思った。
子どもの多いカンボジアで
孤児院の子供観光の合間を縫ってシェムリアップにある孤児院を訪れた。ここでは0~17才ぐらいまでの子どもたちが約60人生活している。2、3日前に生まれたばかりだという、小さな小さな赤ちゃんもいた。この孤児院の前に置いていったり、アンコールワットに置き去りにしたり・・・自分の親がどこにいる誰なのか、わからない子どもたちは後を絶たないのだという。この町ではどこにいても子どもの姿を見かける。本当に子どもが多い。子どもが多いのはシェムリアップに限ったことではなく、カンボジア中で人口の約45%が15才以下の子どもなのだそうだ。遊んでいる子どももいれば、働いている子どももいる。一人でも多くの子どもが、明るく元気に笑っていることを願う。
シェムリアップにある孤児院今回の旅では、平和と戦争についてよく考えさせられた。戦争を実際に体験したことのない私には、テレビや本などで見聞きしたものから想像することしかできない。日常の生活とはかけ離れすぎていて、平和であることが当たり前のことのように、それを意識することはほとんどない。この数日間では、意識しなくても戦争というものについて考えさせられたし、そしてまた、自分が今いる平和な場所が、決して当たり前のことではないのだと実感させられた。
こんな風に言うと今回の旅はなんだかとても重いテーマだったように聞こえるが、この旅は平和と戦争について考える機会を与えてくれただけではなく、どんどん変わっていくベトナム・カンボジアの今の活気に勇気づけられたような気がする。今度訪れるときは、この2つの国はどんな風に変わっているのだろう。次はいつ来られるのかな。楽しみだ!
岡部 聖子
2003年12月

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