近代史における人間の多面性を垣間見た旅(ポーランド・ドイツ)

近代史における人間の多面性を垣間見た旅(ポーランド・ドイツ)

人間一人の力には限りがあるけれど人々が集団となった場合、その可能性には無限になります。今回は良い意味と悪い意味での人間の持つ無限の力、多様性を垣間見た旅となりました。

アウシュビッツ “働けば自由になる”

〇ポーランド
~クラクフ・アウシュビッツ(ビルケナウ)~
今回の研修でまず予備知識として、ナチスドイツとヒトラーを知らなくてはなりません。独裁者でも有名なヒトラーはオーストリアに生まれ第1次世界大戦後から国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)指導者として、アーリア民族を中心に据えた人種主義と反ユダヤ主義を掲げた政治活動を行うようになりました。1933年には大統領による指名を受けてドイツ国首相となり、就任後に他政党や党内外の政敵を弾圧し、ドイツ史上かつてない権力を掌握しました。この時期のドイツを一般的にナチス・ドイツと呼びます。
ヒトラーは選民思想(ナチズム)に基づき、北方人種が世界を指導するべき主たる人種と主張、アーリア人の血統を汚すとされた他人種である有色人種(黄色人種・黒色人種)や、ユダヤ系、スラブ系、ロマとドイツ国民の接触を断ち、またドイツ民族であるとされた者でも、性的少数者、退廃芸術、障害者、ナチ党に従わない政治団体・宗教団体、その他ナチスが反社会的人物と認定した者は迫害・断種されました。
ヒトラー率いるナチス党は1939年のポーランド侵攻に始まる第二次世界大戦を引き起こし、一時的に領土を拡大しました。この戦争の最中でユダヤ人に対するホロコースト、障害者に対するT4作戦などの虐殺政策が推し進められました。
なおホロコーストとは第二次世界大戦中のナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った大量虐殺の事を指します。


今回の研修ではポーランドのクラクフから、アウシュビッツを訪れました。アウシュビッツはナチス・ドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進した人種差別的なホロコースト および強制労働により、最大級の犠牲者を出した強制収容所です。収容された90%がユダヤ人であった。1979年にはこのような悲劇が2度とおこらぬよう願いを込めて、ユネスコの世界遺産に指定されています。
アウシュビッツは現在博物館となっている第1収容所と2km離れたビルケナウにある第2収容所に分かれており、半日あれば両方見学することができます。博物館には当時アウシュビッツに連行されたユダヤ人のカバンや靴、頭髪などに加え当時の写真も展示されており、大変生々しいが当時の様子を伺うことができます。

アウシュビッツに連行されたユダヤ人の旅行カバン

当時連行されてきた人たちの写真 死亡年月日も記載されている

当時のアウシュビッツの写真

特に虐殺を目的とした連行もあり、ポーランドや近隣国から収容されたユダヤ人がアウシュビッツに着くなり、男性と女性・子供に分かられ、女性・子供はすぐにシャワー室を経てガス室に連れられたといわれ、あまりにも負の展示すぎるので言葉も出ません。

列車で連行され、降りると男と女・子供に分けられた。

毒ガスの原材料となったチクロンB

銃殺刑場の跡

見学した第1収容所のガス室はレプリカで、実際に使用されていたガス室は第2収容所であるビルケナウにあるが、ナチスドイツが大量虐殺を隠すため爆薬を用いて破壊をしたため、現在では残骸しか残っていません。
ガス室からは上階の焼却炉へトロッコを利用し死体が運ばれ、そのまま焼却されていたという。また資料としては大変少なかったが、人体実験も多くされ幼い子供たちが実験体にされていました。

ガス室のレプリカ 800人収容できたという

焼却炉のレプリカ 死体をトロッコで運んでくる。

ビルケナウにあるナチスが破壊した実際のガス室

ビルケナウの入り口には通称死の門と呼ばれるゲートがあり、多数のユダヤ人や政治犯が列車で連行された。現在残されるのは死の門と線路のみであるが、博物館で見た写真とリンクし当時の風景が思い浮かんでしまいます。

入口の死の門から続く線路。

当時実際に使われた車両

死体が投げ込まれたとされる池

アウシュビッツを巡り、私はふと被害者はともかく加害者であるドイツ軍の一兵までもが、この大虐殺に心から加担していたのだろうか?と思ってしまいました。
その時に思い出した興味深い事件があります。1970年代にアメリカ・スタンフォード大学で行われた実験で、普通の人が特殊な肩書きや地位を与えられると、その役割に合わせて行動してしまう事を証明しようとした実験で、普通の大学生などの70人から選ばれた被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせるという実験で、その結果時間が経つに連れ看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるという事が証明されたといいます。
ヒトラー自身は選民思想を持っていたが、その時の将校や一兵卒までもが同じ思想を持っていたとは考えにくく、もちろんトップに就く人間に考えを合わせなければ自分がアウシュビッツに送られてしまう恐怖もあったのではないでしょうか?アウシュビッツの悲劇は一人の狂信者がこのような環境を作り、集団化することで罪悪感が薄れ、虐殺をする者・される者を生んでしまったと信じたいです。
ただ世界では今もまだ戦闘や拷問、奴隷など、過去を教訓としない出来事が多発している。みんな仲良くは難しいかもしれないが、せめて人々が苦しい思いをしないよう願います。

犠牲者の慰霊塔

アウシュビッツの観光への拠点に滞在したのがクラクフです。クラクフはかつてポーランド王国の首都であり、第2次世界大戦の破壊を逃れた旧市街は現在も中世の佇まいをそのまま残しており、現在世界遺産にも指定されています。

中央広場にある聖マリア教会

広場には屋台も並ぶ

ヴァヴェル城

たまたまクラクフを訪れた日がイースターマンデーという祝日で、どの教会でもミサが行われ天気の良さも相まって、多くの観光客が楽しんでいました。中央広場にある聖マリア教会は1222年に建築されたゴシック様式の重厚な教会で、教会内にある祭壇は国宝にも指定されている。ミサの合間を狙って見学しましたが、この祭壇は今まで見てきた中世教会にある祭壇の中でもナンバー5に入るくらいの素晴らしい彫刻でした。

重厚な作りの聖マリア教会

絵画も素晴らしい聖マリア教会

その他旧市街はヴァヴェル城や、ユダヤ人街のあったカジミエシュ地区、シンドラーのリストにも出てきたシンドラーの工場など見どころがたくさんあります。ぜひ徒歩でゆっくりと中世の雰囲気と近代ポーランドの雰囲気を味わってほしいです。

昔のユダヤ商店を模したカフェ

ユダヤ教の教会であるシナゴーグ

旧市街地は馬車で回ることもできる

~ワルシャワ~
ポーランドではワルシャワ、グダンスクも訪れました。ワルシャワは第2次世界大戦の折、壊滅的な打撃を受け徹底的に破壊されてしまいました。その後市民は“ひびの1本にいたるまで”忠実に街を復元、世界遺産にも指定されています。
実際ワルシャワの旧市街地を歩くと、その予備知識がなければ第2次世界大戦で破壊されたとは思えないほど、中世の街並み感を出しています。アウシュビッツで負の可能性を見せつけられたが、ワルシャワでは人間が団結した時の良い意味での可能性を見ることができました。旧市街地には旧王宮もあり、王の寝室や王冠の間など、絢爛豪華な部屋が復元されており一見の価値があります。人気で言えば、クラクフを訪れる人が多いと思いが、ワルシャワの旧市街地を見学していただき、ポーランド人の気迫や意地をぜひ感じていただきたいと思います。

復興された旧市街地広場

旧王宮がある王宮広場

旧王宮内にある王冠の間

ショパンの心臓が埋められているとされる聖十字架教会

~グダンスク・マルボルク城~
ポーランドの北部にあるグダンスクは、ポーランドでも最も美しいといわれる街のひとつ。ワルシャワと同じく第2次世界大戦で破壊されてしまったが、現在は復興され、その当時の美しい街並みが取り戻されています。

グダンスクのドゥーギ広場

グダンスクは中世後期に北ドイツを中心にバルト海沿岸地域の貿易を独占し、ヨーロッパ北部の経済圏を支配した都市同盟であるハンザ同盟都市として繁栄し、旧市街地にはバロックやルネッサンス、バロックなど、その当時に流行りの建築様式で建てられた街並みが大変美しいです。街の中心には聖母マリア教会があり、500段の階段を上ると教会の上からグダンスクの美しい街並みを見ることができます。あいにく天気が悪く、華やかさに少しかけてはいたが十分中世の息遣いを感じることができました。

聖母マリア教会の上からグダンスクの街を眺める

聖母マリア教会にある15世紀の天文時計

旧モトワヴァ運河

また半日かけて郊外にある世界遺産マルボルク城も訪れました。1274年に建築されたドイツ騎士団の城で、こちらもやはり第2次世界大戦で大きな被害を受けたが現在は修復され、同時の雰囲気を感じることができます。きらびやかな装飾などは一切なく、実際に使われいた城という雰囲気がとても印象的。夏のシーズンへ向けての改装や工事が行われており、通常入れる部屋に入れなかったりという事があったが、逆に隠し扉のようになっている所もありドラクエなど歴代のゲームをしてきた私には、ちいさいメダルを探すがごとく城の探索ができ大変楽しかったです。ちなみに財宝やアイテムは落ちていなかった。少し残念。

マルボルク城

マルボルク城の場内

マルボルク城の歴代城主の墓

マルボルク城の昔のトイレ

〇ドイツ
~ベルリン~
ポーランドは第2次世界大戦中の物語であったが、ドイツ・ベルリンは第2次世界大戦後の物語です。ベルリンといえば何と言ってもベルリンの壁ではないでしょうか?
ベルリンの壁が建築された背景は、第2次世界大戦後に勝利した連合国軍の占領下に入ったことから始まります。ベルリンは資本主義を名目とした西ドイツと、共産主義を名目とした東ドイツに分断され、共産主義を嫌う東ドイツの住民が多く西ドイツに流失したことから、東ドイツを囲う為に作られた壁をベルリンの壁と呼ぶようになりました。
そのことから冷戦の象徴とも呼ばれています。世界情勢の変化に伴い1989年に壁は崩壊しましたが、今もベルリンにはチェックポイントチャーリーと呼ばれる検問ゲート跡が残されており、近くにある博物館も併せてみるとその当時、どのような雰囲気だったかが想像できます。
お上りさんよろしく、私もついつい記念写真を撮ってもらいました。また当時国家秘密警察(ゲシュタポ)と親衛隊(SS)のあった場所は、ナチによって人々が拷問を受けた地下牢などと一緒にベルリンの壁がそのまま残されており見学することができます。ポーランドとは雰囲気がガラッと変わり、ベルリンは最新都市。博物館などを見学して、ベルリンの街を満喫してきました。

チェックポイントチャーリーで記念写真

リアルベルリンの壁

ベルリンの博物館でエジプト展を見学

~ポツダム~
ベルリンから電車で約20分。ベルリンの庭とも呼ばれるポツダムも行ってみました。ポツダムは何といっても教科書に出てくるポツダム宣言が策定されたまさに歴史の場所。見どころは街中心の広大なサンスーシ公園の中にある、いくつかの宮殿です。サンスーシ宮殿は1747年フリードリヒ大王によって建てられた宮殿で、その当時の流行りの様式であるロココ様式で建てらました。宮殿の正面には階段状の温室もあり、絢爛豪華でいかにも王宮といった作りです。暖かい日差しの中公園を歩いていくと、同じくフリードリヒ大王に建てられた新宮殿も見学できます。真向かいにある重厚な建物があり、そちらが新宮殿かと思っていましたが実はポツダム大学でした。ドイツの大学生はこんな立派な建物で授業ができるなんてとてもうらやましいです。今回はクローズしていて入れませんでしたが、絵画館などもあり、1日のんびり見学したい小都市です。

ポツダム サンスーシ宮殿

ポツダム 新宮殿と思いきやポツダム大学だった。

~B級グルメ・カリーウルスト~
ベルリンのB級グルメ・カリーウルストも食べてみました。私が食べたお店はカリー36という結構有名なお店のようで、行列までは行かないもののそこそこ並んで購入しました。多めの油で焼き上げされたおいしそうなソーセージに、カレー粉と甘めのケチャップをかけるといういわゆるB級グルメです。オプションでケチャップ+マヨのポテトもつけることができます。味はおいしいです。さすがソーセージの国だけあり、なかなかのお味です。
ただ少し考えました。ただでさえうまいソーセージをこんなにジャンクにして食べる必要があるのかと・・・。
おそらくソーセージを良く食べる人が  確かにおいしいがさすがに飽きてきた→ケチャップをかけてみる→おいしいが一味足りない→さらにカレー粉をかけてみる→やるじゃん!カレーウルスト!  といった感じだったのではないでしょうか?でも私個人としてはマスタードをつけザワークラウトと一緒にビールを飲みながら食べるソーセージが一番おいしいと思います。

人気のお店 カリー36

B級グルメ、カリーウルスト。

私は中世文化が好きなのですが、中世の自体にはもちろん写真もないので文献や絵画などがその当時を知る手段となります。今回訪れたポーランドやドイツはまさに近代史の中心。
近代は写真も残されておりよりその当時の状況を知ることができます。その分逆に生々しく思うこともありましたが、すごく考えされられる研修でもありました。そういう意味では中世史も近代史も両方楽しめるポーランドは、見どころ満載ですごくおすすめです。
クラクフ:☆☆☆☆☆ 中世の街並みが綺麗に残りおすすめ。
アウシュビッツ:☆☆☆☆☆ 歴史の事実としてぜひ見学したい。
ワルシャワ:☆☆☆☆ 復興のされ具合が半端ない。
グダンスク:☆☆☆☆ ゲーム好きな方はぜひマルボルク城へ
ベルリン:☆☆☆☆ 近代都市なので食事も博物館も無難に楽しめる
(2016年3月 菅原幸介)
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