未知の国リビアへの旅 

未知の国リビアへの旅 

ビザ取得への長い道のり
かなり前からリビアという国のことは気になっていた。エジプトとチュニジアの間にあって、カダフィ大佐の独裁政権下にある社会主義国。行けそうでなかなか行けない国。4名からしかビザが下りない上、そのビザ取得が至難の業だと聞いていた。そして、日本語のガイドブックなどまだ出されてもいない。いったいどんな国?と聞かれてもほとんど答えようがなかった。砂漠があって、遺跡があって・・・・それでおしまい。リビアは私にとって完璧に未知の国だったのだ。


しかしそろそろリビアへのツアーも開拓しなければならぬ。でも我が家のメンバーはいつも通り6歳の娘の彩乃を入れて3人である。4人からしかビザは下りないけれど、何とかならないものだろうか。そして考えついた手は、もうひとりスタッフを加えて4人で行くことにして申請を出す「ダミー作戦」であった。
それにしてもリビアのビザは大変だ。パスポートの内容を外務省でアラビア語訳してもらい、それを取りに行き、やっとリビア大使館で申請。航空券の実物が必要なので、ダミーの人間のダミーチケットまで発券するひと手間が必要だった。でもお陰で無事ビザ取得OKとなった。パスポートが手元に戻ったのは出発の5日前と、ハラハラ、ドキドキの日々であった。去年のゴールデンウィークに一度トライしたものの、モロッコ&リビアの旅の手配がうまくいかず、モロッコ&チュニジアに変更した苦い経験があった。だから、2年目にしてやっとリビア行きが実現したことになる。今回はアリタリア航空を利用するのでイタリア経由。そして帰りに久しぶりにマルタにも寄るプランであった。
リビアはアフリカ北部、地中海に面する国で、面積はなんと日本の4.6倍もあるのだ。西にチュニジアとアルジェリア、東はエジプトとスーダン、南はニジェールとチャドと、たくさんの国々と国境を接している。今回はその北西部、チュニジアとの国境近くの小さなトリポリタニアと呼ばれるエリアだけを周遊する計画だ。リビアは広いのだ。首都で、ゲイトウェイとなるトリポリもこのエリアにある。
それにしても、お隣りのチュニジアとはまさに「近くても遠い国」である。ソフトモスリム(緩やかな戒律のイスラム教)で外国人はワインまで楽しめるチュニジアとは全く異なり、リビアは社会主義国で禁酒の国である。観光客ずれしていない国なので、お酒自体普通では手に入らないお国柄なのだ。行きに1泊するローマでたらふくワインを飲んでおこう。

あわや、入国拒否事件発生!?
リビアとイタリアの時差も知らなければ、ローマ~トリポリ間のフライトタイム(所要時間)も知らず、あまりにも呑気な私たち。前もって調べようともせず怠慢な旅人である。ローマを飛び立ちサンドイッチと赤ワインの軽いランチを取り、しばらくはワインも飲めないなあと言いつつ、ほろ酔い加減で少しウトウトしていると、もう着陸のアナウンスでびっくりした。実はローマとは1時間の時差で、所要2時間というのが正解であった。日本との時差は7時間遅れということになる。
トリポリ空港は人でごった返すでもなく、早く飛行機から降りて入国審査場へもすいすいと調子よく到着。けっこう前の方に並んだので、これは早く入国できそう。順番がきたので、ニコニコしながらオフィサーにパスポートを提出。EDカード(入国カード)もないシンプルさ。予想外に簡単なんだ、この国は。・・・そう、タカをくくっていた。
「グループか?」と髭面の入国管理官。「はい、グループです」と私たち。「他のグループのメンバーはどこだ?」・・・「3人だけのグループです」
「ちょっとそっちで待っていてください」・・・・・・?!
いきなりの問題発生である。まさか入国時にも4人いないとトラブルとは思わなかった。とりあえず、言われるままに、隅の方のソファで他の人々がすべて審査を終えるのを待たされることになった。
「なんで待たされるの?早く通してって頼めば?」と幼い彩乃は不思議そう。こんな経験は初めてだからだ。ちょっと緊張したひととき。張りつめた空気の中で、いろいろと考えをめぐらす。ここまで来て入国拒否されたら、一体どうすればいいのだ?リビアへ行く代わりマルタでのんびりする?イタリアに戻るって手もある?悲観的な発想の中に一縷の楽しみを見出そうと努力する私。タバコを吸って不安を鎮めようと無表情のパパ。
そうこうするうちに、やっとのことですべての旅行者の入国審査が終わり、いよいよ我々の番だ。別室から我々のパスポートを持った先ほどの管理官が現れた。現地手配の整っている旨を証明するため、現地連絡先の旅行社のTELナンバーを教えると、ふたたび別室へと消える男。ドキドキの一瞬。男が戻ってきた。パスポートを3冊ヒラヒラさせている。
OK! YOU CAN GO, PLEASE!
最後に髭に隠れた口元が笑った。なんだ、いい人じゃないの。彩乃は親指を立てて
「やったね!」とにっこり。
荷物はすでにベルトコンベアから降ろされて、遠いところにポツリと残されていた。税関もきっとうるさいんだろう。覚悟して通ると、ここは意外にもノーチェックで、 PLEASE, YOU ARE WELCOME!と優しそうなおじさん。最初の厳しいイメージは、もはや見事に払拭されたのであった。


アブアブ登場!

外に出ると、私たちを待っていてくれたのは、60がらみの大柄のガフアージ氏。
現地旅行社フォーシーズンズツアー社の社長だ。社長自らガイドもこなすミニ会社だ。横に立っていたのが長身でかっこいい黒人ドライバーのアブドゥさん。目をギョロギョロさせて愛嬌たっぷりの笑顔を見せる彼は、エディ・マーフィーの映画「星の王子様」に出てくる御付き役の人みたいだ。背が高くハンサムな男の人が大好きな彩乃は、案の定アブドゥさんが大のお気に入りとなった。25歳だが運転歴7年のベテランだ。人形みたいにクリンとした睫毛が可愛い。彩乃は彼のことをアブドゥとなかなか言えず、「アブアブ」と呼ぶと、「アヤーノ」と彼が答える。二人にはことばは要らないようだった。さっそく抱っこしてもらってご満悦のようである。
リビアの人はアラビア語を話す。アメリカとは仲が悪いので英語は通じない国である。ガフアージ氏は英語堪能。砂漠の民族であるベルベル人なので、ベルベル語も話すし、その上イタリア語とドイツ語も話せるらしい。かつてドイツ人の奥さんがいてドイツに20年も暮らしていたのだと言う。自分は日本人観光客をよくお世話しているから、日本人の気質を理解していると自負する彼。その割にいつも約束の時間の15分遅れで現れるのは、むしろ十分リビア人だと言いたかったが。
何はともあれ、白くていいバンが用意してあり、一路トリポリの市内まで30分。トリポリの人口は150万人。海に面した港とアラビアらしい旧市街の織り成す風景が魅力的な町だ。とはいえ、ドバイなどのように洗練されているわけではなく、海に面して建ち並ぶリゾートホテルもどこか一昔前の垢抜けない外観である。街中にはカダフィ大佐の似顔絵の大きな看板が目立つ。アラビア語で何らや書いてあるのでガフアージ氏に聞くと、「親愛なるカダフィ様、皆あなたを尊敬し愛しています」という意味らしい。ホテルのロビーにもレストランにも、あらゆるところにカダフィ様はいる。でも、北朝鮮の金日正とかイラクのフセインのような存在ではなく、リビア人にとってのカダフィ大佐はキューバのカストロのようなヒーロー的な存在であるという。1969年まで王制であったリビアを解放し、人々に自由を与えてくれた偉大なる人物として、尊敬されているのである。
リビアにはグリーンブックという聖書のような本があり、あちこちで売られている。名緑色の表紙でLIVRE VERT (フランス語で緑の本の意)というタイトルが書かれた本は、カダフィ氏が世界中の著名人の立派な教えをまとめ、自分のことばでまとめ本にしたものだ。あらゆる人生における指針が載っている、まさにコーランと並ぶバイブル的な存在なのだという。この本の色から、リビアの国の色は緑とイメージされるが、実際国旗は模様一つない緑一色なのには驚いた。家々もドアや窓枠が緑に塗られているのが目に付くはずだ。
リビアのベールが、今はがされる
トリポリのバザールだだっ広くて殺風景なホテルなども、かつてのロシアや中国と共通する一昔前の社会主義国のイメージそのままなのに、トリポリの旧市街を歩いてみると、ここはまるで別世界であった。金製品のアクセサリーを飾った煌びやかな店がズラリと軒を並べ、黒いアバヤに身を包んだ地元の女性が買い物を楽しんでいる。バザールは職人街へと続いた。真鍮の大皿や飾り物をコンコンカンカンと細工する職人たちの姿は、時代を遥か昔に遡ったような昔そのままの世界だ。立派なミナレット (尖塔)のあるモスクがある一方、イタリアの植民地だった名残で今でも教会があるのだが、今ではカトリック教徒はおらず、国民の100%がモスリムである。
「禁酒は法律で定められているため、お酒を飲んでいるのを見つかったら牢屋行きです」、とガフアージさん。「でも、どこの世界にお酒を全く飲まない人が見つかるでしょうか?」とも付け加えた彼。この国にもブラックマーケットは存在しているらしいし、200 から300キロも走ればチュニジアだ。「お酒を飲もうと思えばお隣りのチュニジアに行けばいいワインがたくさんありますから。両国の国境はいつも開かれています」なるほど。
物価の安さにも目を見張る。コーヒーもミネラルウォーターの大きなボトルも50円ほど。バザールでも、女性の盛装用に美しい配色の縞模様の布地が売られ、横にはパーティー用の可愛いバッグが並んでいた。淡い桜色に金の持ち手が付いたお洒落なバッグは、日本なら2万円はしそうなのに、18ディナール(約15US$)という安さで、嬉しくなってついひとつ買ってしまった。
町のオープンカフェでコーヒーを飲む。ミルクが泡立ってイタリア風で苦くて濃い。それを小さいグラスや陶器の杯のように小さなコップで、二口で飲み終わる量だ。本場イタリアのエスプレッソのように、食後はこれを飲まないと食事が終わった気分がしなくなった。カフェではメンテ(ミントティ)もわりあいポピュラーだ。たっぷりのミントの葉を押し込むように入れてあり、その香りと甘ったるい味がアラブ風。横で水タバコをプクプクと音を立ててふかしているアブドゥさん。煙を嬉しそうに手ではらう彩乃。我が子を見つめるように優しいアブドゥさんであった。
経済状態が良くて、貧しい人がいないので、この国は安全で治安もとてもいい、というのは来てみてわかった事実だ。モロッコやエジプトのように、バザールでしつこく客引きして売りつける人などいないし、貧しいアジアの国々のように、子供の物売りがいたり、車のフロントガラスを拭く商売も存在しない。ドバイのように夜も安全で、出歩いても平気だ。とはいえ、勝手にガイドなしで郊外へタクシーチャーターで行く、などというのはよくないらしい。ガイドさんは同行し、入国後1週間以内にツーリストポリスでもらったレジストレーションを持っていないと問題が発生することもありえるそうだ。バックパッカーがひとりで自由に旅することができない国、だからこそ我々が3人で来たことに価値がある、と私は思った。そして日本で情報のないリビアという国のことがやっとわかりかけてきた気がする。
イラク戦争真っ只中の3月26日から12日間の旅。リビアへ行くという私に、知人は「人間の盾になるの?」と言った。とんでもない見当違いだが、リビアは危ない国というイメージを持つ日本人はきっと多いのだろう。
リビアで初めてのディナーはトリポリのダウンタウンのレストランへ。外食の習慣が少ないお国柄、レストランの数は少ない。まず、必ずと言っていいほど出されるのがリビア風スープ。イタリアのミネストローネを思わせる野菜スープで、これに細切りパスタやラム肉が入っている。代わりにライスやクスクスが入っていることもあるそうだ。アラビックサラダも定番。小さい角切りのトマト、キュウリや豆などのミックスしたものにオリーブが乗っている。いつもいつもこれがでるのでいい加減、旅の最後はワンパターンになったが。
リビアでは主食はフランスパンだ。黄色くモチモチした蒸しパンのようなのや、ホブスがでることもある。このレストランではホブス(ナンのようなパン)が売りのようだった。レバノンから来たもので、チーズが挟んであるのと、スパイシーな羊肉のミンチが挟んであるのが出てきた。チーズがとろける熱々のホブスは絶品で、彩乃はこればかりむしゃむしゃと食べ続けていたほどだ。ちょっと凝ったレストランらしく、シリアやヨルダンでよく出てきたホモス(ナスやひよこ豆のペースト、トマトとたまねぎの煮物など)も並んだ。メインディッシュはシルバーの細長いお皿にチキンカツや炭火バーベキューのケバブ、フレンチフライの盛り合わせ。なかなか豪華な晩餐である。羊が苦手な人でも、チキンもビーフもあって不自由しないし、どれもが日本人の口に合う。料理の美味しさはイタリアの植民地だった影響もあるのか。
これにビールかワインでもあれば申し分ないのだが、禁酒だから仕方がない。ノンアルコールビールは種類も多く、ドイツのBECKS社のものがいちばん本物に近い喉ごし。少なくともイランで飲んだ甘ったるいのよりはかなり進化したものであった。冷えたスプライトやコカコーラ、そしてミネラルウォーターでしのげるものである。アル中でなければ・・・・。

いよいよ砂漠へ
ガダメスはトリポリの南西650キロ、アルジェリアとチュニジアの国境に近い、サハラ砂漠東部のオアシスの町である。一歩足を延ばせば、果てしなく続く砂丘が姿を見せる。砂丘観光の拠点だが、それ以上にここの街並みはユニークで見ごたえがある。
旧市街には、灼熱の太陽に輝く漆喰の白い家並みが、アーケード状の細い迷路で繋がり、内部は外の暑さがウソのように涼しく過ごしやすい住居となっている。7 つのメインストリート、7つのモスクや学校、市場跡もあり、実は25年前までは9000人もの人々がここで暮らしていたというのも納得できる。
ガダメス旧市街漆喰でできた白い家
暗いトンネルのような細道をずんずん進んでいくと、行く手にぼんやりと明かり取りから差し込む光が見える。ちょっとした探検気分である。暗くて怖い時には歌を歌いたがる彩乃。リビアのオアシスで日本の歌を歌う変な親子の姿があった。
トンネルの様な細道
旧市街の中の民家にはベルベル人の芸術の粋を極めたような内装の家がある。赤を基調に、細かい刺繍が施されたクッションや絨毯に壁掛けが豪華である。なんと、ランチはここでクスクス料理が振舞われたのである。小粋なサービスであった。どこかのレストランの出前だが、絨毯の上にあぐらをかいて、アラブ風に皆でクスクスをスプーンですくって食べたのであった。
ベルベル人の民家
広大な砂漠ガダメスから車で20分も走ると、土漠のように固い荒野の中に、美しい砂丘が聳えるのが見えてきた。ナミビアなどで砂丘の楽しみを体験したことのある彩乃は「大好きな砂漠だー!やったー!」と大興奮。幅が広くスケールの大きい、そしてけっこう標高もある砂丘だ。4WDがぐるっと脇の方から登っていくと、いつの間にか中腹にいて、そ彩乃とアブドゥさんこからデューン・バッシングで、砂丘を猛スピードで上り下りする。すごいスリルにキャーキャー叫ぶ私たち。4WDを降りたら、歩いて砂丘の上に上っていく。滑りながら登ると、靴の中に砂がいっぱい入ってくる。太陽で温められ、生ぬるい砂だ。彩乃はアブドゥさんに手を引かれて、滑り落ちたり登ったりを繰り返し上機嫌だ。
真っ赤な太陽が地平線に沈む。そこはアルジェリアとチュニジアとリビアの3国国境なのだ。雲に広がる羊雲をピンク色に染め上げていく夕陽。耳には砂漠を通り過ぎる風の音だけが聞こえる。遥か彼方まで永遠の広がりを見せるサハラ。大きなリビアという国の大半を占めるサハラ砂漠はここから無限の砂丘を見せてくれるのだろう。今見ているのが未知なる世界のほんの入り口でしかないことはわかっていても、いつの日かきっと出会ってみたいと、私は切に願っていた。
人間がちっぽけに見える広大な砂漠のほんのひとつのデューンにたたずみ、夕陽と、きれいな空とそして星空を眺めて、小さな彩乃はどんなことを思ったのだろうか。

未知なる壮大な遺跡に遭遇
ナルート遺跡砂漠ありオアシスあり、リビアの魅力に圧倒され始めていたら、実はまだまだ甘かった。もうひとつ、すごいものが残っていたのだ。それは地中海に面して立つローマ時代の壮大な遺跡であった。
ガダメスからトリポリへの帰路、サブラータ遺跡に立ち寄った。北アフリカで最大の円形劇場と言われ、地中海に面して立つ3階建ての楽屋と客席のスケールの大きいローマ劇場である。ちょうど楽屋の隙間から海が見渡せるのが絵になる遺跡だ。背後が海というのは、海から吹く風に乗って舞台の上の声がよく客席に届くことが計算されている。365年の大地震や海水で崩れたものの、元通り見事に修復されているのも驚きである。紺碧の海と青い空のもとで見るサブラータのすばらしさは、ヨルダンのペトラ遺跡を見たときの感動と匹敵するものであった。
サブラータ遺跡サブラータ遺跡
サブラータ遺跡と同様に、1982年に世界遺産に登録されているレプティス・マグナ遺跡も必見である。こちらはトリポリから東へ200キロにある、やはり地中海に面した広大な遺跡だ。砂に埋もれていたため、良好な状態を保っているので、見ごたえ十分。まだ、全体の30%しか発掘されていなくて4平方キロという広さだから、将来すべてが発掘されたらすごい規模であろう。丁寧に見る人は2日もかけて朝から夕方までじっくり見る人もいるのだとか。私たちは2時間で駆け足の見学であった。
レプティス・マグナ遺跡
ゴージャスな大理石の公衆トイレだの、ジムやサウナの設備跡だの、競技場跡だの、天井のモザイク画の破片が転がっていたり。今では草が茂り花が咲き,バッタが跳ねるのどかな静けさに包まれている。かつてはここがどんな完全な形で存在し、どのような服装をした人々が暮らしていたのか、想像するだけでわくわくしてしまう。紀元前という太古の昔からここにあった、美しいレリーフが施されたオリジナルの円柱の破片の上に、私たちは平気で腰掛けている。こんなこと、日本では許されないだろう、絶対。
レプティス・マグナ遺跡リビアを発つ日がきた。大の仲良しになったアブドゥさんとの別れが惜しいと、ずっと空港でべったり引っ付いている彩乃。夕べ、ホテルでアブドゥさんの似顔絵を描き、それをプレゼント。
別れ際に、小さな紙袋を彼は彩乃に手渡した。ちょっと涙ぐみながら。彼は彩乃ののためにプレゼントを用意してくれていたのだ。それは陶器製の可愛いバレリーナの人形だった。きっと安い給料なのに、なんていい人なのだろう。
そのバレリーナの人形は今でも彩乃の勉強机の一番いい場所に飾ってある。
井原 三津子
2003年3月

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