人種・宗教・言葉 あらゆる垣根を超える美しきシルクロードの国々〜カザフスタン・トルクメニスタン・ウズベキスタン〜

人種・宗教・言葉 あらゆる垣根を超える美しきシルクロードの国々〜カザフスタン・トルクメニスタン・ウズベキスタン〜




イスラム教は平和を愛する宗教なのです。アッサローム・アライクムという挨拶の言葉も「あなたに平和が訪れますように」という意味なんです。
ガイドの言葉が旅行を終えた今でも耳に残っている。
今回、カザフスタン・トルクメニスタン・ウズベキスタンと中央アジアの3ヶ国を旅した。初めて「〜スタン」の意味は「〜の土地」ということを知った。カザフ人が多い土地はカザフスタン、トルクメン人が多い土地はトルクメニスタン、ウズベク人が多い土地はウズベキスタン。逆にとれば「スタン」がつく国は大多数を民族はいるものの様々な人種・民族が土地を奪い合った場所なので、ウズベキスタンを例にとれば、ウズベク人はもちろんロシア人、カザフ人、トルクメン人、アルメニア人やアゼルバイジャン人もいる。ちなみに、人気観光地サマルカンドはタジク人が多数派を占める。そんな様々な人種の中で、ソ連統治という暗黒時代から脱却後、経済の立て直しを成功させたそれら3国の状況を鑑みるに、共通するイスラム教というバックボーンがあったからこそ、と思ってしまうのだ。(補足するとロシア系はロシア正教なのでこれらの国はイスラム教徒が大多数ではあるが「国教」としてはイスラム教と定めていない)
「イスラム教は平和を愛する宗教」、その心がなければ未だ民族紛争になっていてもおかしくはない。実際これらの国に行って接した人々の自然な優しさやおもてなしの心に私は少なからず感動を覚えた。様々な人種・宗教を受け入れながら共生し発展を続けるこれらの国々の寛容さは日本人として見習う点が多い。
実は中央アジア・シルクロードの国々にそれまで大きな興味があったわけでないのでこれまで自発的に訪れたことはなかったが、今回の訪問で思いがけず感銘を受けてしまった。今回このような貴重な機会を得たことを現地旅行社並びにガイドやドライバー、現地で出会った方々に感謝したい。


=================今回の行程=================
10月14日 日本発ソウル乗り継ぎでアスタナへ                /アスタナ泊
10月15日 アスタナ郊外&市内観光                        /アスタナ泊
10月16日 アスタナ市内観光後、国際線でタシケントへ           /タシケント泊
10月17日 国内線でヌクスへ、陸路でトルクメニスタン入国、地獄の門へ /ダルヴァサ泊
10月18日 陸路でウズベキスタン入国、車でヒヴァへ             /ヒヴァ泊
10月19日 ヒヴァ観光後、車でブハラへ                     /ブハラ泊
10月20日 ブハラ観光後、特急列車でサマルカンドへ            /サマルカンド泊
10月21日 サマルカンド観光後、特急列車でタシケントへ /タシケント泊
10月22日 タシケント観光後、空港へ
10月23日 ソウル乗継ぎで帰国
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■■■■■■■■10月14日 アスタナ到着■■■■■■■■
10月14日 アシアナ航空101で成田からソウルへ。ソウルまでは約2時間半。この前の旅行がアメリカその前がトルコだったので、2時間半のフライトは朝飯前だ。機内食はコチジャン付きのとり丼、美味しい。
ソウルに到着。まず驚いたのは乗り継ぎする人が少ない。あまりに少なくて、本当に乗り継ぎこっちでいいのかなぁと心配になってきてしまった。前のトルコに行った時には入国する人が少なくてびっくりしたのだけど。
アスタナ行きの579便まで3時間半。時間に余裕がある。こうなったら韓国料理を食べるしかないと思い、空港内のフードコートでキムチゲとビール。食べ物だけで韓国を感じることできるので乗り継ぎがソウルというのはなかなかいいな。
ようやくアスタナ行きの便に搭乗。お客すくなっ!全体には300席くらいあり、私が座っていた機内後部エリアの150人くらいのスペースにいたのは10人くらい。前方エリアはそこそこ埋まっていたようだが3分の1もいなかったと思う。毎日運行ではないはずなのにこのガラガラ感。もうちょっと小型化した方が良かったのではないかと思ったが色々事情があるのかもしれない。
ソウルからアスタナまで約5時間。
アスタナに到着。空港はびっくりするほど綺麗。アスタナ時間で夜の10時半。あらかじめ配られる入国カードに必要事項を記入する。入国カードはキリル文字と英語も表記されており、そこまで細かいことまで聞かれない。入管もどこからきたのか、何日くらい滞在するかを聞かれたくらいであっさり入国できた。Eチケットも見られなかった。
荷物を引き取り、税関を抜けてガイドさんと合流。市内のホテルまで空港から約30分。
空港から市内へ道は一般的にグローバル企業やドメスティックな大企業の看板があったりするものだが広告は全くなかった。広く新しい道路は交通量から見るといささか大きく造りすぎているようにも見えた。
しばらくするとようやく街並みが見えてきた。ネオンを放つ大企業のビルに高層マンション、国家機関の建物。交通量も増えてきて、街らしくなった。ただし歩いている人がほとんど見えない。ガイドさんがいうにはこのアスタナには100万人もの人が住んでいるとのこと。土曜だというのにこの100万人の都市の夜は「賑わい」が圧倒的に欠けているように感じた。まるで映画の近未来都市のよう。「『設計された人工的な都市』…人々は外気にさらされることなく快適な生活を送ることができます」、そんな辞書のようなアスタナの説明が頭に浮かぶ。
ホテルに到着。
<KAZZHOL> ★★★★
イシム川の右岸、アスタナモール付近に位置する4つ星ホテル。造りは小さいが、豪華なエントラス。私がチェックインした日はちょうど結婚式のパーティがあったようなので、このあたりのホテルでは比較的格式が高いホテルなのだろう。ポーターに荷物を持ってもらい室内へ。入って見てびっくり、何式かはわからないがロシア帝政様式をモダンにした感じ。こんなお上品なお部屋を使っていいのでしょうか。室内にはドライヤー、セーフティーボックス、コンプリメンタリーの水、ミニバー、無料WIFI(比較的早い)、テレビ、バスタブあり。


■■■■■■■■10月15日 アスタナ観光①■■■■■■■■
<アスタナ郊外のソフィエフカで伝統的なカザフ族の暮らしを体験>
朝食を食べて朝10時にガイドさんと合流し、ホテルを出発。この日の午前中の観光はアスタナ郊外、約40キロ離れたソフィエフカへ。ソフィエフカには今も昔ながらの暮らしをしているカザフ族の伝統・文化が残っているのだとか。
ソフィエフカまではほとんど綺麗な幹線道路をまっすぐ行くだけだが、時折まだ整備が終わってないらしく道路の横の砂利道を走っていかざるを得ない時もあった。都心からたかだか40分ほどの距離だが、道路の整備がおざなりになっているところを見ると「アスタナ経済圏」外にあたるのだろう。
まずこの日のカザフ族の暮らしを見せてくれるアルマンさんの自宅へ。
以下、アルマンさんが見せてくれたカザフ族の代表的な風習を紹介していこう。
1、 ユルタ


モンゴルではゲル、中国ではパオと呼ばれる遊牧民が住居として立てるテントのこと。基本構造はkerege(ケレゲ)、shanyrak(シャニラク)、uyk(ウイク)の3つからなるそうだ。
(1)keregeはユルタの木を組み合わせた格子状の壁のこと。keregeを円状にするためkeregeの大きさでユルタの大きさも自ずと決まる。
(2)shanyrakはユルタの天窓のこと。調理の際の煙がこもらないようにと自然の光を差し込む役割を担っている。夜は寒気が中に入らないようにshanyrakをフェルトで閉じる。朝になると朝日を感じられるようにshanyrakを開ける。この作業をするのは嫁いできた若い奥さんがするそうだ。
(3)uykは壁と天窓を繋げる役割の木の棒。shanyrak(天窓)から放射状に広がるようにkerege(格子状の壁)と組み合わせられる。
この3つがユルタの基本構造で、この上から多数のフェルトを張り合わせ防寒対策をする。アルマンさんのお宅では残念ながら冬の期間、ユルタは設置してはいないとのことで、豪華な刺繍を施したユルタの内部を見ることができなかった。夏の間はユルタの中で食事などを楽しむそうだ。
2、鷹狩り
カザフ族にとってイヌワシは誇り。勇ましく実直なハンティングの名手。まさにカザフ族の理想を形にしたような動物だ。アルマンさんはイヌワシを片手に乗せて、近くで見せてくれた。艶やかな毛並みと大きな爪、鋭く尖ったくちばし。翼を広げると2mもの大きさになるとのこと。このイヌワシが大空を自由に羽ばたき獲物を捕獲する姿を想像する…、飼い主でなくとも惚れ惚れするような姿だ。お言葉に甘えて私の腕にも乗せてもらうことに。イヌワシが乗ったままの腕のカバーをつけかえてもらうとずっしりと重い。このイヌワシだけで7キロ近い重さなのだとか。この日はアルマンさんのお庭で、生肉をターゲットに見立ててのハンティングの練習を見せてもらった。イヌワシは50mほど先のアルマンさんの弟さんが腕にぶら下げた生肉(馬刺し)を目掛けて一直線に飛翔。見事に生肉をキャッチした。美味しそうに生肉を食べるイヌワシ。
聞くところによるとイヌワシは肉食で、1日に0.5キロもの生肉を食べるそうだ。とってもお金がかかる生き物である。




3、カザフ族の食事
アルマンさんのお宅で昼食。ユルタの中で食事ができなかったのは残念ではあるが、こうして一家団欒の中で食事を共にできるのも嬉しい。ここではアルマンさんが振舞ってくれた代表的な食べ物を紹介しよう。
クミス・・・
村に来てまず振る舞われたのが馬乳酒。こちらでクミスと呼ばれる。カザフ族にとってはポピュラーな飲み物であるらしく、このあと訪れた先々の場所で「クミス飲んだ?」と聞かれた。馬乳酒と言ってもアルコールは1%前後で、肉食中心の遊牧民の生活において、野菜の代わりにビタミンやミネラルを補給するものとして幅広く飲まれているそうだ。

バウルサク・・・
揚げパン。小麦粉を油であげた砂糖をかけないドーナツのようなもの。外はカリッ中はもちもちで美味しい。カザフ族の主食といってもいいだろう、最もオーソドックスな種類のパン。おかずの間にバウルサクをもりもり食べるので、カザフ族の食事の際には綺麗に盛り付けなどはせずボウルサクをテーブルに無造作に転がしておくのが一般的らしい。

BESH BARMAK(ベッシュバルマク)・・・
何時間も煮込んで柔らかくなった牛肉とラザニアのような平たい麺を合わせた料理。透明なスープは牛骨をベースにしており、あっさりしていながらも深い味わい。5本の指で食べた方が美味しいとのことで、料理名は「5本の指」のカザフスタン語。

今回、振る舞って頂いた食事のほとんど全てが自給自足またはカザフスタンで生産されているものとのこと(ドライフルーツのアプリコットと角砂糖だけは輸入品)。
カザフ族の食事情というとあまり思い浮かぶものがなかったのだが、あまりにバリエーションが豊かで驚いた。日本に置き換えて考えると、一般家庭の日々の食事をこれほどのバリエーションで尚且つ国内で生産されたものだけの素材で作るのは至難の技だろう。
食事中、アルマンさんがカザフ族の伝統楽器ドンブラを披露してくれて昼間から楽しい宴になった。ところで夕食をいただいた居間にはアルマンさんのお父さんの絵があるのだが、その絵が面白い。狩りをしている最中の姿を現した絵で、馬に乗りながら犬を従え、イヌワシを操っている。1人で馬、鷹、犬の3匹の動物を従えて狩りに出かけるのだ。これってほとんど桃太郎・・・。




家族総出で歓迎してくださいました

アルマンさんのご自宅を後にしてアスタナ市内へ。
<アスタナ市内観光〜右岸〜>
まずアスタナは主に2つのエリアに分かれている。
イシム川を中心にした川の右側の旧市街と左側の新市街だ。
右側が主にソ連時代に造られた旧市街(ただし独立広場周辺の建物は2000年代の建物)。左側が1997年に首都がアスタナに移された後に急ピッチで開発が進む新市街。新市街の建物はほとんどが2000年以降にできたもので、奇抜な建物が多いのはこの新市街エリア。
この日の午後は川の右側の旧市街を訪れた。以下、情報が少ないので英語とガイドさんの言葉を意訳して紹介する。
(1)憲法広場(constitution square)
カザフスタン大統領ナザルバエフがアルマトイからアスタナへの遷都を宣言した場所
(2)初代大統領博物館(Museum of the First President)
元々の建物はソ連時代の大統領府。2004年に博物館としてオープンした。時の大統領ナザルバエフや建国に関する資料や他の国から贈与された品々、さらには武器のコレクションまで。ユニークなものとしてはサイクリングが盛んな国らしく海外大会にて優勝した時のスポーツバイクも展示されているのだとか。

(3)イシムエンバークメント
イシム川沿いの遊歩道。遊歩道沿いにあるアート作品が並んでおり、週末になるとストリートミュージシャンや大道芸人、露天などで賑わうそうだ。夕暮れになると周囲の建物がライトアップされ、恋人たちばかりになるのだとか。

(4)平和と調和の宮殿(The Palace of Independence)
アスタナでひときわ目立つ、ピラミッド型のコンベンションセンター。設計やバレイテレクやハーン・シャティールを設計したイギリスの建築家ノーマン・フォスター。エレベーターは傾斜60度で斜めに高速で進む。このエレベーターは世界に数台しかない珍しいもの。1階と2階が展示室、地下は劇場、3階が大会議室、最上階が円卓会議場となっており、天井にはカザフスタンの国旗を模した青い壁面と太陽がデザインされており、なんだかインスピレーションが湧いてきそう。「世界伝統宗教指導者会議」「カザフスタン民族会議」などで使われた。



(5)独立広場(Independence Square)
平和と調和の宮殿と大通りを挟んで向かいに位置するのが独立広場。91メートルの鉄塔(カザク・イェリ・モニュメント)が立っており、これはソ連から独立した1991年を表している。周囲にはカザフ音楽大学や、国立博物館、独立宮殿などアスタナを代表する奇抜なデザインの建物が多数建てられている。
(6)ハズィレット・スルタン・モスク
2012年に完成した、最大五千人もの礼拝者を収容できるという中央アジア最大規模のモスク。白亜の外観がひときわ目を引く。内部の白とエメラルドグリーンのデザイン、壮麗なシャンデリアは、一見の価値あり。12 世紀に中央アジアにおけるイスラム布教に尽力した聖人コジャ・アフメド・ヤサウィの異名が名前の由来。イスラム教徒が大多数を占めるカザフスタンだが、多民族国家のためか街を歩いていても宗教的な色合いはあまり強くない。時折巨大なモスクが顔を出すのでその時にカザフスタンの宗教について考えさせられる。なおハズィレット・スルタン・モスクは右岸のモスクだが、新市街の左岸にはNur-Astanaモスクという別のモスクがある。

(6)エキスポパーク
2017年の9月まで行われたアスタナ万博の会場。万博が終わったばかりなので、建物はがらんどう。ひと気はないが、次の利用方法はすでに決まっているようで改修作業の真っ最中。エキスポのメインの建物であった球体のカザフスタンパヴィリオンはエキスポミュージアムという名前で近い将来再オープンする見込み。なおエキスポパークのそばにはアスタナ最大規模のショッピングセンター「メガ・シルクウェイ」があり大変な賑わいを見せている。

夕食はモスクワ・ビジネス・コンプレックスという高層ビルの25階のレストラン「VECHNOE NEBO」にて。バイテレクの眺望の良い、中央アジア全般の郷土料理を食べさせてくれるレストランだ。牛タンのシーザーサラダ、チーズを挟んだピザ、小籠包に似ている「マンティ」という餃子を頂いた。どれも美味しい。帰りは1階にあるスーパーマーケットにてカザフスタン製のビールを買って帰った。

■■■■■■■■10月16日 アスタナ観光②とウズベキスタンへ■■■■■■■■
朝9時半にホテルロビーにてガイドさんと合流。
<アスタナ市内観光〜左岸〜>
この日は新市街の左岸を観光する。左岸の観光の中心となるのはWater Green Boulvard(水と緑の大通り)。Water Green Boulvardはその名の通り、豊かな緑と噴水が整備されている遊歩道。大統領府からハーン・シャティールまで、約3キロ続くこの大通り沿いにアスタナの有名な観光地が集中している。
(1)コンサートホール「カザフスタン」
イタリア人建築家が設計した巨大なコンサートホール。3500人収容のホールの他に会議室やチェンバールームもある。外観が葉っぱの巻きついているような形をしているので一般の人々には「キャベツ」と呼んでいるそうだ。

(2)大統領府
現在の大統領官邸。アスタナの政治の中心であり、新市街の起点となる場所である。新市街の街並みは大統領府からハーン・シャティールまで直線上に造られている。

(3)バイテレク
アスタナのシンボルである高さ105mの塔。平和と調和の宮殿と同じく、設計はイギリス人建築家ノーマン・フォスター。バイテレクとはカザフ語で「ポプラ」を意味する。聖なる鷲サムルークが「生命の木」バイテレクに黄金の卵を産み落とすという カサザフの神話に基づいてデザインされている。卵の中が展望台になっておりアスタナ市内を360 度一望出来る。遷都された 1997 年に由来する97mの展望台最上部にはナザルバエフ大統領の手形の置物があり,観光客が手形に触れながら記念撮影ができる。なお私の手のサイズはナザルバエフ大統領の手のサイズとほぼ同じだった。



ぴったんこ

(4)ハーン・シャティール
世界最大規模のテント型の建物。2017年にエキスポパークの近くにできたメガ・シルクウェイができるまではこのショッピングモールがアスタナで最も広いショッピングモールであった。デザインは大統領府、平和と調和の宮殿をデザインしたノーマン・フォスター。モール内にはモルディブの砂を持ち込んだという人口のビーチがあるのだとか。

一通りWater Green Boulvardを歩いた後はランチへ。
ランチはアスタナ郊外にあるTHE GARDEN。こちらは昨日の料理と打って変わってモダンなカザフスタン料理。シーザーサラダとラタトューユのような牛肉料理を食べた。ここのレストランでは特に顕著だったので写真を撮らせてもらったのだが、カザフスタン人の顔は本当に日本人に似ている。今にも日本語喋りそうだ。韓国人や中国人でも日本人の顔に似ている人はいると思うが、こちらの人の方が根本的なベースが似ているように感じる。

その後、空港へ向かいガイドさん、ドライバーさんとお別れ。お二人のサポートで良い旅行になりました。ありがとう。
空港にてウズベキスタン航空にチェックイン。
出国、セキュリティーチェックは特に問題がなく通過、無事カザフスタンを後にしてウズベキスタンへ。
<ウズベキスタン入国>
カザフスタン出発して約2時間後にウズベキスタンに到着。
この日はウズベキスタンのガイドさんに言わせると大混雑していたようだが、かなり入国に時間がかかった。入国だけならまだしも税関までかなり時間をかけてみるので、到着してから空港を出るまで約1時間半かかったと思う(しかも税関の時には税関申告書を2枚書かないといけないらしくその場で一枚追加で書かされた)。
しかもウズベキスタン人は横入りしてくるので、やたら時間がかかる。入国審査や税関の時に待たせる国は市役所などの行政サービスの手続きも待たされるのだろうなと思う。
とにかく到着してからの印象が悪かったウズベキスタンだったが、ガイドのアリさんに会って気持ちが和んだ。アリさんは日本語が上手で、埼玉県の入間市に2年ほど住んでいたそうだ。西武池袋線に乗っていたというので、埼玉県話で盛り上がった。
またアリさんはヒゲが少し濃くて、少し頭皮が薄くなっていたように見えたので、年齢がいってから日本に留学したのかなと思いアリさんは何歳ですか?と聞いたら逆に何歳に見えますか?と聞かれたので「45」と答えると苦笑いしたアリさん、実は32歳だった。正直に答えすぎて失礼しました。
空港から直接レストランへ。夕食では久しぶりに生ビールを飲む。ウズベキスタンではイスラム教徒は多いが酒が全面的に禁止はしていない。ビールにコニャック、ウォッカなど旧ソ連の影響もあってか多種多様なお酒が飲まれる。(生ビール2杯で30000スムだった。約400円。)
夕食後、この日のホテル、ウズベキスタンホテルへ
<ウズベキスタンホテル>★★★
市内中心部、ティムール広場に面した大型ホテル。地下鉄駅にも近くて便利。ソ連時代には最上級のホテルだったのだろう。古さは感じるものの室内は広め。室内には冷蔵庫、バスタブ、セーフティーボックス、スリッパ、無料のWIFIあり。格式が高いらしくほぼ毎日結婚式が行われている。そのときは12時頃までうるさい。

■■■■■■■■10月17日 トルクメニスタンへ 地獄の門とキャンプ■■■■■■■■
朝4時に起床し、早朝の便でヌクスへ向かう。ガイドのアリさんも一緒に飛行機に乗り(トルクメニスタン部分を除いて)最後までの旅路を共にしてくれるそうだ。それは心強い(ガイドと一緒に国内線に乗るのは初めてだがこういった方法はウズベキスタンでは一般的らしい)。
市内から空港までは混雑なしで約20分。
空港で降ろしてもらい、アリさんと一緒に空港内へ。ちなみに空港に入るまでに荷物検査が2回もある。空港周りの施設の出入りは厳しい印象。
ホテルで作ってもらった朝食(ハムとチーズをかさかさのパンに挟んだサンドイッチ)を食べてウズベキスタン航空にチェックイン。再度荷物チェックを受けて搭乗ゲートが空くまで待つ。
コーヒーが飲みたくなったので販売機でカプチーノを購入。お釣りが出てこないのには驚いた。
プロペラ機に乗り込み約2時間半、ヌクスに到着。
ヌクスの空港は現在工事中らしく、飛行機から降り車に乗った後は空港の出口の運動会のテントのような場所で荷物が出てくるまで待たされた。約30分後、ようやく預け荷物を積んで来たトラックがやって来て荷物をピックアップ。
待ち合わせていたドライバーの車に一緒に乗り込んで、ウズベキスタンとトルクメニスタンの国境まで約1時間のドライブ。
<国境越え ウズベキスタン(ヌクス)→トルクメニスタン(クフナ・ウルゲンチ)>
ウズベキスタンの国境に到着。あまり出入りが激しくないのか他にトルクメニスタンに行く人々の姿は見えなかった。しとしとと雨が降る中、ウズベキスタン側の出国手続きをする。
海に囲まれた日本だとあまり陸路の出入国のイメージがつきづらいと思うので順をおって説明していこう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ウズベキスタン出国〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
手続き(1)
門番にパスポートを見せて、ウズベキスタン側の建物の中へ。パスポートの顔写真のページ、ウズベキスタンビザ、トルクメニスタンビザをチェックされる。

手続き(2)
税関検査。税関申告書を記入する。以前入国時に記入したものと合わせて2枚を管理官に提出。2枚とも没収される。荷物はX線に通すも特に何も言われない。

手続き(3)
出国スタンプを押してもらう。ここも特に何も言われない。

手続き(4)
施設の出口で最後のパスポートチェック。施設の門番同様、パスポートの顔写真のページとウズベキスタンビザ、トルクメニスタンビザをチェックされた。
ウズベキスタン側の出国手続き終了。手続き(1)〜(4)は前に3名ほどの先客がいたが30分以内に全ての手続きが終了した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜トルクメニスタン入国〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
手続き(5)
トルクメニスタン側の施設へ歩いて移動。距離は100mないくらい。
トルクメニスタン側の施設も同様門番がいるので、そのスタッフに再度パスポートの顔写真のページ、ウズベキスタンビザ、トルクメニスタンビザをチェックされる。さらにタバコは持っていないか、酒は持っていないかを聞かれた。(酒はコニャックをカザフスタンのガイドさんからいただいたので1リットルのコニャックがあると申告したが特に何も言われなかった。)

手続き(6)
トルクメニスタンの施設に入館。まず入り口の左の部屋のおじさんに呼ばれて、名簿に名前を書かれ、赤外線のようなもので熱(?)も測られる。

手続き(7)
トルクメニスタン側の税関申告書をかく。

手続き(8)
トルクメニスタン側の通行料として14$を払う(ウズベキスタン側では特に何も払わなかったけど・・・)

手続き(9)
(8)で支払った領収書を持って別の窓口で両手の親指の指紋採取と顔写真を撮られる。その後、入国スタンプを押してもらう。

手続き(10)
荷物をX線に通して、中身を確認される。そこまで厳しくは見られなかった。

手続き(11)
施設を出る際の警備員にパスポートチェックを受けて、はれてトルクメニスタン入国完了。
車の待っている箇所まで100mほど歩く。
トルクメニスタンの入国審査はとにかく時間がかかった。トルクメニスタン側に到着してから1時間半くらいを費やしただろう。原因は前にドイツ人の8人の団体客がいたからもあるかと思うが、根本的な原因はトルクメニスタン入国管理官の人たちは待っている人のことなんて気にも留めていないのだろう。順路もはっきりしていない上に誘導なんてしないし、後ろがつかえていようが自分のペースでやる、ちょっとやそっとじゃ動じない、これぞ「お役所仕事」を見たような気がする。
あまりの遅さに耐えかねて、トルクメニスタン側のガイド、ラチーナさんがトルクメニスタンの入館事務所まで迎えに来てくれた。私は手続き(9)の窓口で入国スタンプを押してもらうための列の最後尾で、一刻も早くトルクメニスタンに入国することなんぞとうに諦めてベンチに座って呆けていたところだった。ラチーナさんが来てくれなかったらもっと時間がかかっていただろう。
トルクメニスタンに入国した後、ラチーナさんにこれまでトルクメニスタンに入国できなかった人はいますか?という質問をしたところ、独立記念日などの影響で外国人の出入国を制限することがあるが基本的にはそういった特殊な事情がなければ審査に引っかかって入れないことはないとのこと。私の場合はビザを用意していたが、ビザを取る場合はさらに時間がかかるそうなのでやはりビザは取っておいて正解だった。
*補足:帰国後弊社ビザ担当に確認したところ独立記念日が10月27日なのでそのために厳しくなっているとのこと。通常そこまで待たされることはないそうです。

ようやくトルクメニスタンに入国!写真はトルクメニスタン側の国境>

<クフナ・ウルゲンチ観光>
地獄の門への道すがら、トルクメニスタンの国境から30分足らずクフナ・ウルゲンチの遺構を訪ねた。
クフナ・ウルゲンチは2005年10月にユネスコの世界遺産に登録された古代ホレニズム王国の首都。10世紀から14世紀の約500年間栄えたシルクロード最大の都市であったが、13世紀にチンギス・ハーンによる中央アジアの進出、15世紀のティムールの侵入によりクフナ・ウルゲンチの街は破壊された。その後もアムダリア側の流れが北に変わったとこにより貿易の要所としての優位性も徐々に衰退し、ウルゲンチという名の新しい都市が新たに建設され、17世紀にはヒヴァに首都を移すこととなり、クフナ・ウルゲンチはその役割を終えた。現在は中央アジアで最も高いクトルグ・ティムール・ミナレット(67m)、青いタイルの装飾が見事なトレベクハニム廟などの遺構が数カ所に残り、当時を忍ばせる。


クフナ・ウルゲンチを後にして地獄の門のあるダルヴァサまで移動する。
所要時間は約4時間。前半の2時間は道路が陥没しているボコボコな道、後半の2時間は比較的まともな道だった。

道すがら立ち寄ったスイカやメロンを直売するおばあちゃん。このおばあちゃんのメロンは本当に美味しかった

午後8時ごろ地獄の門の付近に到着。幹線道路から脇道にそれて荒れた土地を走ること約10分。
真っ赤に光る大きな穴が見えてきた、これが地獄の門だ。
<地獄の門>
クフナ・ウルゲンチから南へ約260キロ、カラクム砂漠の中央、ダルヴァサ村の近郊。それに近づくにつれ、ぱっくり空いた巨大な穴とその内部で真っ赤に燃えさかる炎が見えるだろう。まさに地獄の入り口だ。恐る恐る近づくもその熱風と眩しさに圧倒される。クレーターは半球を描き、勢いよく燃え上がる巨大な炎を中心にいくつもの炎を吹き出している。地上は固い岩盤の上にあるため炎はここまで上がってくることはないが、落ちたら間違いなくこの地獄の業火に焼かれ命はない。このあまりの恐ろしさと舞い続ける炎の美しさから世界中の観光客を惹きつけているのだろう。
この「地獄の門」は旧ソ連時代の1971年、地下ガス調査中の落盤事故が発端。穴の底から発燃性の有毒ガスが漏れているため、ガスの噴出を防ぐためやむなく点火。ガスは止むことがなく現在に至る約45年間、燃え続けている。
トルクメニスタン政府としては事故で生まれた偶然の観光地であるため、困惑しているよう。有毒ガスを排出していることもあり、一刻も早くこの巨大な穴を埋めたいと思っているが、あまりの炎の強さにそれもできないでいる。年々炎の大きさは小さくなっているという地元民の声もあるので興味がある方は早めに訪問をすることをお勧めする。


地獄の門を一通り見た後は、現地旅行社が設けた近くのキャンプサイトへ車で移動。
<地獄の門付近でキャンプ体験>
地獄の門の付近にはホテルがないので、キャンプをするのが一般的だ。キャンプと言ってもドライバーとガイドが食事の準備と毛布や寝袋を用意しているので心配は無用。炭火で焼いた野菜やシャシリク(肉の串焼き)は格別だ。日が暮れると夜空の星が空一面に輝く。シャワーやトイレはないため、不便はあるかもしれないがそれ以上に、大自然に囲まれながら温かいコーヒーを飲み語らう時間は特別なモノのように感じた。地獄の門へは車で10分程度の距離のため、食事の後や早朝などの他の観光客があまりいない時間帯にも訪れることができるのが嬉しい。
夏の期間は夜でも気温が高いため、夜空を見上げながら外で寝ることができるそうだ。今回、私の訪れた10月は外気温が低いため冬の間のみ常設しているユルタの中にガイドとドライバーの3人で宿泊した。と言っても雑魚寝ではなく、ゲストにはユルタ内に1人用のテントを用意しておりプライバシーも守られている。またユルタの中にはケロシンストーブがあるので、真冬に来てもユルタの中は暖かい。しかしタシケントなど他の都市と比べるとやはり寒いため防寒具は必ず用意しておこう。
またお酒はないため必要な方は事前に準備しておこう。ただしトルクメニスタンに持ち込めるのは21歳以上且つ2リットルまでなので注意が必要だ。
ちなみに私がカザフスタンで手に入れた良いコニャックを次にくるゲストのためにガイドに言ってユルタに置いておいたので(誰かが持って帰っていなければ)それで楽しい夜をお過ごしください。






夕食後は再度地獄の門に赴き、業火を見物。いつ見ても惚れ惚れするほど凄まじい。周りが漆黒の闇に包まれるほど燃え盛る炎とその音は一層迫力を増しているように思える。
地獄の門の近くにはまるで女性の胸のような(とドライバーが言っていました)小高い山が2つある。その小高い山のうち1つは頂上が炎の光に照らされて、まるで雪を抱いた富士山のようにも見える。そこからの眺望はぽっかり空いた地獄の門全体を見ることができるのでおすすめ。



ビールを飲みながら観光するカナダ人と あぶないよ!

■■■■■■■■10月18日 ウズベキスタン・ヒヴァへ■■■■■■■■
ゆで卵とロールパン、ソーセージなどの朝食をとった後、3回目の地獄の門へ。
<朝の地獄の門>
朝食後、改めて地獄の門へ向かう。これまで2回は夜に訪れたので初めて明るい時間帯だ。あいにくの曇り空だったが、他に見物客はいなかったので私1人で地獄の門の光景を独り占め。炎のはっきり見える夜の方が神秘さや迫力は勝るが、日中は人物の顔ははっきり写るので、朝も夜もどちらも訪問するのがおすすめ。



ユルタに戻って荷物をまとめた後はダルヴァサを出発。車で4時間、ウズベキスタンとの国境の町・タシャウズへ。
13時ごろタシャウズにてピラウのランチ。
タシャウズで最近できたというレストランでガイドさんとドライバーさんの3人でトルクメニスタン最後の食事。トルクメニスタンのピラウは絶品。塩漬けの野菜と一緒に食べるのがスタンダードらしい。


ランチ後はトルクメニスタンの国境で降ろしてもらい、ガイドさん・ドライバーさんとお別れ、ここからウズベキスタンへ抜ける。基本的には昨日の逆になるが念のために記しておきたい。
<国境越え トルクメニスタン(タシャウズ)→ウズベキスタン(ウルゲンチ)>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜トルクメニスタン出国〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
手続き(1)
トルクメニスタンの入管施設の門番にパスポートチェック。いつもの通りトルクメニスタンビザとウズベキスタンビザと写真の面の3つを確認された。

手続き(2)
建物に入るとまずは入り口にて名簿記入のためパスポートを係りの人に渡す。

手続き(3)
出国審査。パスポートを渡して出国スタンプを押される。特に何も質問されずスタンプを押された。

手続き(4)
別の建物に進みそこで手荷物チェック。税関申告書を記入してX線に荷物を通す。ここで係員のスタッフにペンを貸してと言われたので貸したら、返してもらうの忘れた(取られた?)。

手続き(5)
トルクメニスタン側の門番にパスポートチェックを受けて、ウズベキスタン側の国境に向かう。
しかし目を凝らすもどこにもウズベキスタン側の入管施設はない。どうやっていくんだろうと思っていたら、パスポートチェックしたスタッフが、タクシーが来るからここで待っててね、という。そのスタッフが予告した通りタクシーはその後すぐにやってきて、私の他にお婆さんとおじさんの計3人を乗せてウズベキスタン側の施設を目指す。
タクシー代金は2ドル(現地通貨の場合は8マナット)。車で移動した距離は多分500mもないくらい。有料なら事前に言ってくれればいいのに(歩いている人は1人もいなかったが)。
手続き(1)〜(5)は約30分の所要時間。トルクメニスタンのガイドさんもおっしゃっていたがトルクメニスタンは出るのにはそんなに厳しくはない。入国の時にあれだけ時間がかかったので、肩透かしを食らった気分。いや、まぁいいんだけど。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ウズベキスタン入国〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
手続き(6)
ウズベキスタン側の入り口の門番にパスポートチェックを受けて、ウズベキスタン側の入管施設へ。

手続き(7)
荷物審査を受ける。入国の時と同じく税関申告書は2枚書き、一枚はハンコを押されてこちらに戻される。

手続き(8)
窓口で入国スタンプを押される。晴れてウズベキスタン入国だ。

手続き(9)
施設の出口でパスポートチェックを受けて、外へ。
100mほど歩いたところでウズベキスタンのガイド・アリさんと合流。1日ぶりの再会だがもっと長く感じた。
手続き(6)〜(9)は全体で15分ほど。やはりトルクメニスタンよりもウズベキスタンの方が厳しくないし、お金も取られない。
ガイドのアリさんと合流後、約1時間15分の車での移動を経てヒヴァに到着。
ヒヴァのホテルは現地旅行会社が運営している城壁内のホテル・アルカンチ。
<アルカンチ>★★★
日本人旅行者もよく使う城壁内にある3つ星ホテル。伝統的な石造りの建物。
室内は清潔。クローゼットの取り付け扉が斜めになっているなど多少きになるところもあるが特に差し障りはない。ドライヤー、セーフティーボックス、バスタブ、エアコンあり。冷蔵庫やスリッパはない。無料のWIFIもあるが速度は遅く、フロントのみ。有料の1日5,000スムの有料のネット回線もあり室内でも使えるがこちらもあまり早くはない。


夕食はアルカンチから徒歩5分のYASAVUL BOSHIで。
ヒヴァの名物の平たいパンとカボチャのスープ、シュヴィトオシという通称・緑のうどんのセットメニュー美味しかった。

■■■■■■■■10月19日 ヒヴァ観光、ブハラへ■■■■■■■■
朝9時にガイドさんと合流。ヒヴァ観光へ。
<ヒヴァ>
タシケントから西に約1000km、ヒヴァは1991年にウズベキスタン国内で初めて世界遺産に登録された都市だ。ヒヴァの歴史は古く、すでに1世紀にはアーリア人の町があったとされている。17世紀前半にはアムダリア川の流れが変わったことによりウルゲンチ・ハンの首都クフナ・ウルゲンチが衰退すると、ヒヴァがウルゲンチ・ハンの新首都に選定される。ホレズム随一の都市となったヒヴァの町には敵からの侵入を防ぐために外壁と内壁の二重の城壁が築かれた。現在、世界遺産に指定されているのは内城、イチャン・カラの内部。イチャン・カラには17世紀ごろに造られた20のモスク、20のメドレセ、6基のミナレットが現存し、数百年経った今でも変わらぬ中世の街並みを残している。
とにかく小さなエリアに所狭しとモスクやメドレセが並ぶので、ほとんど迷路。
ガイドが一緒であれば効率よく3時間ほどでメインの見所は見てまわれる。
私たちが歩いたルートと簡単な説明を記しておきたい。
(1)オタ・タルヴァサ・・・西門。イチャン・カラのメインの入り口だ。ここで各館の共通の入場料金を払う(ガイド付きのツアーであれば入場料は含まれている)。撮影料金は含まれていないので撮影する人はここで共通の撮影代金として15000スムを支払う(約2ドル)。
(2)帽子屋・・・西門を越えるとすぐ目につくのが帽子屋さんの露店。昔のヒヴァの人々は羊の毛の帽子をかぶり、髭をたくわえるのが身だしなみのだったそうだ。羊の帽子は暑そうに思えるが夏は涼しく冬は暖かいそうで、1年中人々はかぶっていたとのこと。私もかぶったら、一気にファンキーになりました。


(3)クフナ・アルク・・・現在ホテルとなっているメドレセ・オリエントスターの前を横切り、左を曲がるとクフナ・アルクの入り口に到着。17世紀に建てられた”古い宮殿”という意味のクフナ・アルクは後に建てられたタシュ・ハウリ宮殿と区別するために、その名がついた。クフナ・アルクの内部には王の邸宅や玉座、モスク、ハーレムなどがある。造幣所までも備わっていた。青と白の細かいデザインのタイルで施されたモスクは一見の価値あり。なおクフナ・アルクには物見櫓がありそこからヒヴァの街並みが一望できる(7000スム)。また宮殿の入り口近くには監獄があり、現在は博物館として公開している。泥棒、殺人の他に浮気まで極刑に処せられたのだとか。

物見櫓からの景色


(4)ムハンマド・ラヒム・ハン・メドレセ・・・クフナ・アルクの向かいにあるメドレセ。こちらもモスクのタイルが美しいメドレセの一つ。



(5)ジュマモスク・・・幾つもの木の柱が特徴的なモスク。柱一つ一つの彫刻は同じものが一つとしてなく、また素材も多種多様なのだそうだ。柱の数はなんと213本、柱の古いものは10世紀に遡るという。



(6)タシュ・ハウリ宮殿・・・19世紀に建てられた宮殿。クフナ・アルクよりも規模が大きい。繊細な模様のタイルや彫刻にも目を奪われるが、この宮殿で最も立派なのがハーレム。大小163部屋があるようで、王はほぼ毎日女性ひっかえとっかえ自室で一夜を過ごしたのだとか。気に入った女性は、妾としてハーレムに住まわせた。


タシュ・ハウリで売られていたヒヴァ名物の毛糸の靴下

(7)アラクリ・ハン・メドレセ・・・東門の近くに立つメドレセ。中庭は広く時たま大道芸もここで行われるそう。

(8)クルゥム・ムラド・イナック・メドレセ・・・アラクリ・ハン・メドレセの向かいに立つメドレセ。現在は土産物屋がいくつか入っており、その中にガイドブックにも載っているコクーンというお店がある。コクーンは東京農工大とNGOが共同で出資していた地元女性の自立を援助するための民芸品店。一般的な土産物屋さんよりも値段は高めだが質がよく普段使いできそうな品が売っているのでここで購入するのも良いだろう。

(9)バルヴァン・ダルヴァサ・・・東門。東門を出ると賑やかな光景が目前に広がる。かつては奴隷市場だった場所で、今では野菜や果物、肉、穀物など食材全てが揃う青空市場だ。シャシリク(肉の串焼き)を売る露店などもあり美味しそうな匂いを放っている。イチャン・カラ付近で最もローカルな雰囲気が漂うエリアだ。




(10)イスラム・ホジャ・メドレセ・・・ヒヴァ最後のハン、イスラム・ホジャにより1910年に建設されたヒヴァで最も新しいメドレセ。館内には彼にまつわる資料が展示されている。ミナレットはヒヴァでもっとも高く約45m。118段の階段があり、有料(7000スム)で登ることができる。階段は急で転げ落ちたら最後、地上まで一気に転がってしまうので慎重に。ミナレットの頂上からはヒヴァの中世の街並みが一望できる。





(11)パフラヴァン・マフムド廟・・・青いドームが印象的なヒヴァの中で最も豪華絢爛な内装を持つ霊廟。パフラヴァン・マフムドは詩人であり、哲学者でもあり毛皮職人でもある。さらにレスリングが非常に強く人々から尊敬の意味を込めて、ペルシャ語で「英雄」「力士」という意味の“パフラヴァン”をつけてパフラヴァン・マフムドと呼ばれた。ヒヴァではよく結婚式の写真撮影をしにくるカップルがいるのだが、やはりヒヴァの中でも壮麗なこの廟が人気らしく写真撮影スポットとして使われているようだ。


ヒヴァでの観光(約3時間)を終えた後は昼食。
ヒヴァの伝統的な家屋を改築したレストランでヒヴァのパンとシャシリクを食べた。
その後、ホテルに戻り荷物をピックアップ。
ドライバーと合流して、ブハラを目指す。ヒヴァからブハラまでは約6時間。
途中、州をまたぐ時に検問がある以外は比較的綺麗な道路が続き、快適。あまりに真っ直ぐな道が多いので、ドライバーのおじさんは眠くならないように耐えるのに必死だろう。
午後7時にブハラのホテル、マリカに到着。
<マリカ>★★★
ブハラ旧市街に位置する3つ星ホテル。規模は小さいがセンスの良い調度品と手入れされた中庭が心地よさを感じさせる。中庭に面した室内はかなり広め。電灯が少ないのが気になるがまぁいいだろう。セーフティーボックス、スリッパ、エアコン、バスタブ、ドライヤー、ミニバーあり。無料のWIFI(遅め)はフロントでパスワードを要確認。

夕食はシャシリクが有名だというお店、DOLONにて。
スパイスの効いたシャシリクをビールで流し込む。

■■■■■■■■10月20日 ブハラ観光、サマルカンドへ■■■■■■■■
朝9時にガイドさんと待ち合わせてブハラ観光へ出発。
<ブハラ>
タシケントから西に約550km、ウズベキスタンの中央部に位置する世界遺産・ブハラはサンスクリット語で「僧院」を意味している。ザラフシャン川下流域のオアシス地帯に位置しており、すでに紀元前5世紀には要塞都市としての記録が残っているという歴史的な古都である。9世紀後半から10世紀末までサーマーン朝の首都としてブハラは黄金期を迎えることとなる。マムルーク(奴隷軍人)交易が盛んに行われたことにより市街地は拡大され、サマルカンドに代わるイスラム王朝の中心として栄えた。13世紀になるとチンギス・ハーンの侵攻によりブハラは壊滅的なダメージを受けるも16世紀にウズベク人のシャイバーン朝がブハラを首都に制定したことにより、200を超えるモスクや100以上のマドラサが創建された。現存している建物のほとんどがこの16世紀前後に建設されたものである。
我々はまず街の郊外にあるイスマイール・サーマーニ廟まで、ガイドさんがあらかじめ用意していた車で向かった。そこからは観光しながら徒歩でブハラの中心部へ向かうとのこと。
(1) イスマイール・サーマーニ廟・・・9世紀に建立された、数あるブハラの歴史的建造物の中でも最も歴史ある建物。サーマーン朝のイスマイール・サーマーニが父親のために建てた霊廟だと言われている。モンゴルの侵略時は地元民による協力により土に隠して破壊を免れたという。複雑に組み合わせたレンガ造りは一見の価値あり。撮影料は2000スム。

(2)チャシュマ・アイユブ・・・「ヨブの泉」という名の建物。旧約聖書にも登場する預言者ヨブが水不足のおりにこの場所を杖で叩くと水が湧き出たという。泉を守るためにドーム状の建物が建てられている。このようにブハラでは湧き水があるところは砂などで水が汚れるのを防ぐために池の上に建物を建てている場所が多い。
(3)ボラハウズ・モスク・・・1712年に建てられたブハラ・ハン専用のモスク、現在は一般人にも解放され、一般のモスクとしても使われている。入り口には木の柱が20本あり、水面に反射した景観から「40本の柱を持つモスク」とも言われる。入場は無料で内部の装飾は見事。



(4)アルク城・・・歴代のブハラ・ハンの居城。最初の城塞が築かれたのははっきりしないが2000年以上も前にも遡ると言われている。城内にはモスクや住居、監獄や造幣所などがあり、一つの町が形成されていたことが伺える。現在はミニ博物館となっており、かつての暮らしの様子やブラハ近郊で発掘された土器や陶磁器などが展示されている。撮影料は5000スム。



(5)カラーンモスク、カラーンミナレット・・・カラーンとはタジク語で「大きい」「偉大な」という意味。名前の通りブハラで最も見応えのあるモスクとミナレット。モスクは1514年、シャイバニ朝時代に建てられたもので、広さは約1ヘクタール。サマルカンドのビビハニム・モスクに匹敵する大きさ。ミナレットは1127年のカラ・ハン朝時代に建てられたもので、高さ約46mはブハラで最も高い。以前は登れたが2017年以降は登れなくなっており、そのためブハラの街並みを上から見下ろす手段は今の所ないそうだ。撮影料2000スム。



(6)タキ・ザルガオン・・・タキとはブハラ伝統の大きな交差点をドームで覆ったバザールのこと。3つあるタキの中でもこのタキ・ザルガオンが面白い。カーペット屋さん、刺繍屋さんの他にハンドメイドのハサミ屋さんもある。手頃な値段なので買ってゆく観光客も多いとのこと。

歩き疲れたのでここでマリカホテルに戻り、トイレ休憩。10月中旬といえどもブハラは陽気はこたえる。真夏の日には45℃まで気温が上昇するというから熊谷市もびっくりである。
休憩した後は、手持ちのスムがなくなったので両替所へ。2017年10月現在、1ドルは8000スム。100ドル両替したので80万スムとなった。以前はウズベキスタンというと最高額面が1000スム紙幣だったため、100ドル両替しようとするものなら札束たっぷりもらう羽目になり、一気に大金持ちになったような写真がウズベキスタンの旅行者の間で多数見受けられた。日本ではお目にかかれたないような大量の札束の絵面はウズベキスタン旅行時の一種のお約束のようなものだったが、現在は5万スム、1万スム、5000スム紙幣が新たに発行されたため、あいにく大量の札束は拝めなくなった。しかし現実問題として財布に収まるという意味では現在の方が便利ではある。なお両替しすぎても今は再両替はできるそうなので、両替に関しては特に気を揉むことはなさそうだ。自分に関しては残り2泊なので100ドル分のスムは使わないが余ったらガイドにチップとしてあげようと思う。

2017年新発行の5万スム札

両替した後は、この日の昼食のレストラン「MANZIFA」へ。スープはボルシチ、メインは鶏肉のクリーム煮。
昼食の後は観光の続き。
(7)ラビハウズ・・・かつて生活用水として使われた池の前にある大きな邸宅。ここ一帯は都会の中の公園なような雰囲気で若いカップルや老夫婦がお茶をしているなど緩やかな時間が流れている。なお池の前にはフッジャさんというロバにまたがったふざけた様子の男性の像がある。この人物は中央アジア一帯で知られる日本でと例えると一休さんのような人物で、様々な逸話が残されており、子供から大人まで人気だそうだ。

(8)ナディール・ディヴァンベギ・メドレセ・・・1622年、当時のナディール・ディヴァンベギによって建てられた神学校。現在は土産物屋さんとなっている。
(9)マゴキ・アッタリ・モスク・・・マゴキは「砂の中」という意味。その名の通り砂の中に埋もれていたモスクで創建は9世紀まで遡るという。現在は絨毯博物館となっている。
以上で、ブハラの観光は終了。くまなく見ていればさらに時間は要するだろうが、さすがに歩き疲れた。ホテルに戻り、サマルカンド行きの列車の出発時間前までしばらく休憩。
出発1時間前にホテルを出て、ブハラの駅を目指す。
<アフラシャブ号:ブハラ駅→サマルカンド駅>
ブハラ中心地からブハラ駅まで約25分。15:50発のアフラシャブ号に乗るためにブハラ駅へ。ブハラ駅に到着して、駅に入るまでにはパスポートチェックと荷物検査が2回ずつある。駅構内に入ると最後のパスポートチェックとチケットのスタンプに押印されて準備完了。
アフラシャブ号はシャルク号に取って代わる超高速鉄道。約250kmまで加速するという。アフラシャブ号のおかげで乗用車で移動するよりも半分の時間で移動ができる。シートは1列2−2のリクライニングシート。車内は清潔で揺れも少なく快適だ。車内販売の売り子もいる。電源もあるのでスマホやカメラの充電も可能(変換プラグを忘れずに)。現時点では車内のWIFIはなかった。



17:25サマルカンド駅に到着、停車時間は3分程度なので迅速に車内から出なければならない。
ガイドさんに促され、車内からでて出口に向かう。出口にはタクシーの客引きが手招きしている。それを振り払って、現地旅行社が準備してくれていた車に乗車。
サマルカンドから市内へ約15分。
ただしこの日は夕食のために直接ホテルには行かず、レストランに立ち寄る。
まだ午後5時半、昼食は12時に食べてその後はほとんど列車に乗っただけなのでほとんどお腹は空いていない。そこで持って来てもらう食事の順番を変えてもらうことを思いついた。
<私が開発したウズベキスタンでのレストランの注文の仕方>
食事付きのツアーの場合、ウズベキスタンでの食事は常にセットメニュー。
サラダ・パン→スープ→メイン→デザートの流れ。
ウズベキスタン到着して間もないときはこれでもいいのだが、ウズベキスタンで数日過ごしているとだんだんこのパターンに飽きてくる。それに毎回食べ過ぎになることに気づく。
つまり順序よく持ってもらうとサラダ・パンの時点で腹6分目くらいになり、スープが来てパンと食べようものならここで腹8分目を超える。メインが来た時点で9分目。ビール(大抵1本15000スム)を注文しようものならさらに満腹感は2割り増しくらい。もう何も入らないという状態でメインを食べることになるので結構辛い。さらにデザートもくるのでもうお腹ははち切れそうだ。
ガイドさんに無理を言って変則的にいつものセットメニューを
スープ→メイン・サラダ→デザートの流れにしてもらった。
パンはなし、メインとサラダは同時。本当は全部一緒に持って来てもらってもいいのだが、メインは作るのに時間がかかるらしいのでスープは先に持って来てもらうことにした。後半の旅行は全部この注文パターンで私の場合はうまくいった。
サマルカンドの夕食を楽しんだ後はホテルへ。
<CITY>
レギスタン広場まで車で5分、歩いて25分ほどに位置する3つ星ホテル。広めのロビーとフレンドリーなスタッフ。ゆとりのある室内にはエアコン、バスタブ、無料のWIFI(早さはそこそこ)、スリッパあり。セーフティーボックスや冷蔵庫はない。シャワーのお湯や水量の出方がこれまでのホテルの中で一番よかった。ホテル近くには小さな売店があるが、スーパーマーケットへ行くにはレギスタン広場前まで行く必要があったのが難儀だった。
ガイドさんと別れた後は時間が余ったので、散歩がてらにレギスタン広場前のスーパーマーケットへ。スーパーマーケットでは特に目新しいものはないので、水やコーラを購入。コーラは1本3000スム。1ドル=8000スムなので1本40円くらい。安い。なお一般的なスーパーマーケットではお酒は売られていない。


<夜のレギスタン広場とウズベキスタンの居酒屋>
スーパーマーケットで買い物を終えて、レギスタン広場を歩く。
ライトアップされたレギスタン広場を見て驚く。こんなに美しい場所だったのか、とあまりの美しさにしばし呆然。サマルカンドは良い、とサマルカンド出身のガイドさんにしきりに言われていたものだから「出身地の買いかぶりちゃうか?」と半信半疑だったが本当だ、サマルカンドは素晴らしい。均衡のとれた配置とスケール、その模様の美しさ。ブハラやヒヴァも感動的だったがさすがにサマルカンドの感動の度合いは一段階上だ。
そんなレギスタン広場の美しさに浸っていると、地元の若者から「韓国人か」と声をかけられたので「日本人」と答える。その地元のあんちゃんは韓国語を習得中なので練習したかったようだ。英語もイマイチ理解してもらえなかったのでお互いコミュニケーションが取れないのだが何故か意気投合してウズベキスタンの居酒屋にビールを飲みに行くことにした。
タクシーを拾い居酒屋へ。ウズベキスタンの居酒屋は面白い。そもそもイスラム教徒が大半のウズベキスタンでは酒を飲むことは良しとしない。現在のようにアルコールの文化が他のイスラムの国と比べ浸透したのはソ連時代、ロシア人が流入したことにより日常的に酒を飲む文化が生まれた。とは言っても自主的に飲まない人もまだまだ多く、酒を飲むことは後ろめたいことらしい。
今回行った居酒屋も、見た目はここが居酒屋だとはわからない。
1階は駐車場になっており、2階がレストラン。1階には駐車場の他に焼き場がありここでつまみとなるシャシリクや魚の干物を注文して2階に持って来てくれる。2階ではビールの他にアーモンドやチップスなど乾き物とビールの注文のみ。2階の席に座っていた客層は地元のおじさんか遊び盛りの若者達。テレビにはサッカー中継が映っていた。
同席している若者は塗装屋さんらしく、ウズベキスタンは収入が低いから日本に行きたいとしきりに言う。ただし日本人であってもそうであるように転勤などの理由がない限り他の国の就労ビザを取るのは難しいのだろう。ビザを取るのを手伝ってくれ、と言われてもどうやって手伝うのよ、という話を延々繰り返してこの日の夜は更けていった。
<ウズベキスタンのタクシーについて>
サマルカンドで出会った現地の若者とタクシーに乗った時に気づいたことがあった。それは白タクが異様に多い。というよりは手を挙げているとタクシーじゃない車も含めて停まってくれる。白タクも含めて普通のタクシーも全て交渉制。料金トラブルに巻き込まれたくない場合はやはり観光ガイド付きの方がいいと思った。あとからガイドさんに聞いたところUBERもあるけど流しのタクシーを捕まえるほうが安いそうだ。交渉が面倒であればUBERという方法もいいだろう。
■■■■■■■■10月21日 サマルカンド観光、タシケントへ■■■■■■■■
この日も朝9時にガイドさんとホテルに集合。この日は待望のサマルカンドの観光だ。
<サマルカンド>
”青の都”、サマルカンドの魅力をこれほど端的に表した表現は他にないだろう。この地方特有の抜けるような青空とモスクの色、歴史的な建物が並ぶ旧市街はどこを切り取っても美しい。紀元前10世紀にはすでにオアシスの街として発展し、シルクロードの中心としてその名が世界に知られることとなったのは紀元前4世紀頃、アレクサンドロス大王の遠征軍が到達した時のこと。ヨーロッパからアジアにかけての大帝国を築いたアレクサンドロス大王さえもが魅了したサマルカンド。数千年もの間、シルクロードの旅人がこの地に初めて足を踏み入れた時、例えようもない感動に打ち震えたであろう。訪れた人々、誰も彼もが深い歴史とあふれるロマンを身体に感じるはずだ。
メインとなるメドレセや霊廟、モスクは街中に点在しているので滞在時間が短い場合はガイド付きのツアーをお勧めする。
私が訪れた場所は下記の通り。(*マークは後述)
(1) アミール・ティムール廟・・・15世紀に建てられていたアミール・ティムールとその一族の墓。文様に取り入れられた金の装飾が目を奪う。撮影料は5000スム。



(2)レギスタン広場*
(3)JONI OSH*
(4)ウルグベク天文台・・・JONI OSHの昼食の後は、ウルグベク展望台へ。天文学者でもあった天才・ウルグベクがつくった天文台。長年、ウルグベクの文献からその存在は認められていたがその存在は確認できず半ば伝説として扱われて来た。しかし1908年にロシア人考古学者ヴィヤトキンにより六分儀跡が発見された。ウルグベク天文台には天文台跡とそれにまつわる資料館がある(撮影料は5000スム)。

(5)アフラシャブの丘・・・モンゴル軍に破壊されたかつてのサマルカンドの街の跡。現在でも土器などの出土品があるため、何世紀にも渡り調査対象とされている。敷地には資料館があり。出土した壁画などの再現を見ることができる。(撮影料は5000スム)


(6)シャーヒズィンダ廟群*
(7)ビビハニム・モスクとシヨブバザール*
サマルカンドの観光時間は車を使って約5時間。広範囲に渡りしかも見応えがある遺跡が多いため、これでもかなり急ぎ足の観光であろう。個人の足でもまわれなくもないが、日中は気温が高い上に遺跡間は距離があるのでオススメはしない。タクシーも交渉制なので交渉する際はしっかりと。1日で周り切ろうと思うと全てはどうしても見切れないので丸2日間ほどかけてゆっくりまわるのがベスト。それでも時間が限られている方向けに個人的なベスト3を伝授したい。
<サマルカンド観光ベスト3>
ベスト3:ビビハニム・モスク・・・青い3つのドームが印象的なモスク。中庭はサッカー場がすっぽり収まるという中央アジア最大級の規模を誇る(撮影料は5000スム)。近くにあるシヨブバザールはウズベキスタン最大規模でローカルな雰囲気たっぷり。




ベスト2:シャーヒズィンダ廟群・・・メインストリートから折り重なるように続く青いモザイクとタイルで彩られた廟と通路の隙間から覗く青いドーム。サマルカンドで最もフォトジェニックなスポット。(撮影料は6000スム)





ベスト1:レギスタン広場・・・そのスケールと装飾の美しさ、均衡の取れたデザイン。サマルカンドだけでなくウズベキスタン、いやシルクロードを代表する都。なお撮影料は無料。正面左のウルグベクメドレセには入場可能なミナレットがある(3万スム)。サマルカンドでは他に街を見下ろす場所がないため、高所恐怖症でなければぜひ登っておきたい。なおライトアップされる夜のレギスタン広場は特に素晴らしいので必ず見るように。






<地元民しか知らない名店でプロフを食べよう>
ウズベキスタンのツアーで使うレストランの食事は美味しいが、他のお客さんも含めて観光客が多いため、どこもツーリスティックな印象。店員も良くも悪くも外国人客の対応に慣れている。できれば旅行中に一度は地元の人々が本当に美味しいと思うグルメを試してほしい。それにはサマルカンドのプロフがうってつけ。
今回、私はJONI OSHというプロフ屋さんへ。本当は店の名前はない。もともと近所の人に振舞っていたプロフが評判を呼び、レストランを経営するまでになったからだ。現在も趣味の延長のような形で営業を行なっているため、今でも店の看板どころか店名すらない。そのためこちらのプロフ屋さんは”JONI OSH”、つまり「ジョニさんがつくるプロフ」という通称で呼ばれている。プロフは作り置きしてしまうと味が落ちるので出来立てを食べに行くのが通。お店側もたくさん作りすぎない。そのためJONI OSHのような人気店は11時過ぎから売り出して、12時半を過ぎると売り切れてしまう。
私は席を取って、ガイドのアリさんがプロフを持って来てくれるのを待つ。
プロフが到着。見た目はスペインのパエリヤに似ている。サマルカンドプロフの特徴はニンジンや牛肉といった具材がミックスされずに盛り付けられていること。ガイドさんが小さなまな板なようなもので大きめな牛肉を小さく切り分ける。切り分けたところでいただきますの合図。
プロフをスプーンで一口。口の中でお米がパラパラとほぐれ、出汁の効いたスープでちょうど良い硬さに炊きあがったプロフは最高。ニンジンと牛肉のコンビネーションも良い。口の中がオイリーになって来たらお酢を飲んでリセット。またプロフが食べたくなる。
私たちは11時40分にお店に到着。お昼前とあってまだ客はまばらだった30分後には満席。売り切れで帰る人も続出する事態に。
この旅一番美味しい料理だった。そう言うとサマルカンド出身のガイド・アリさんは歯を見せて笑った。なおプロフを食べる日の朝食は軽めにしておくのが吉。炊き上がる時間に行くので食事をするのが早くて11時台となる。お腹をいっぱいで食べられなのは勿体無い。ぜひお腹をすかして訪れてほしい。



看板はない

サマルカンドの観光を終えて、列車の時間まで市内のカフェで時間を潰す。
アフラシャブ号の出発1時間前を過ぎたあたりにカフェを出て、サマルカンドの駅へ。
市内から駅までは車で15分。
ブハラからサマルカンドに来たようにパスポートや荷物チェックを行い、列車が来るのを待つ。構内の時計が狂っていて(標準よりも10分前に表示されていた)焦ったが、問題なく列車に乗車。
サマルカンドからタシケントは約2時間の旅路。なおこの区間のアフラシャブ号は途中でお茶とケーキのサービスがある。



タシケント駅到着。さすがに首都の駅だけあり、これまでの駅の中で一番立派な駅。
出口は列車を背にして右側と左側の2箇所ある。フリーで送迎だけのツアーに申し込んでいる方は、基本ドライバーは右側の出口にて待っているので「降りたら右側の出口」を意識してほしい。


本来、次は夕食なのだがお昼のプロフがまだお腹に残っている。ガイドのアリさんも、私も食べられない、というので夕食なしでいいか、ということになった。レストランの代わりに途中、酒屋に寄ってもらいビールとコーラとおつまみを購入して、この日の宿のウズベキスタンホテルに行く。ウズベキスタンホテルはウズベキスタンに初日到着した時と同じホテルである。1週間ぶりに戻って来たことになる。
■■■■■■■■10月22日 タシケント観光後、帰国の途へ■■■■■■■■
朝9時にホテルのロビーに集合し、タシケント観光へ。
<首都タシケント>
タシケントは大きく2つに分けることができる。新市街と旧市街だ。
新市街の街並みはどことなくヨーロッパ調。これは1966年に起きたタシケント地震により甚大な被害を受けたタシケントがソ連時代に新たな街づくりを行ったためだ。そのため、市内のほとんどが20世紀以降に建設または改修されている。新市街には政府機関の他に国立の博物館や美術館などの近代的な施設が多数。
一方、旧市街には16世紀のシャイバニ朝時代のモスクやメドレセ、活気のあるチョルスー・バザールなど下町の風情が残る場所も。
新市街から旧市街は中央アジア初の歴史的な地下鉄が結んでいるので個人で観光するのもさほど難しくない。料金は一律のため支払いを間違えることもないだろう。
<タシケント市内観光:旧市街>
(1)カファリ・シャーシ廟・・・10世紀の聖人カファリ・シャーシ廟。建物の外にもいくつかお墓がある。建物は2007年に修復されたもの。
(2)バラク・ハン・メドレセ・・・カファリ・シャーシ廟のそばにある16世紀シャイバニ朝のメドレセ。2007年の修復後、1階建に造りかえられたため、中庭には他に遮りるものがない真っ青な空が広がる。なお1階部分はお土産屋さんになっている。


(3)ハズラティ・イマーム・モスク・・・メドレセの向かいにあるモスク。こちらもオリジナルは16世紀のものだが2007年に改築が行われた巨大なモスク。なおこのモスクのそばにはコーラン博物館がある。


(1)〜(3)は歩いてまわれる距離になるのでこれらを見てからは車に乗り次の目的地へ。
(4)チョルスー・バザール・・・ウズベキスタン中心部最大級のバザール。2階建ての青いドームの前の道に車を降ろしてもらうとまず飲食店の業者向け問屋街がある。まるでタシケントの「かっぱ橋」。道路を渡り、近代的なドームの中へ。1階に乳製品、漬物、麺、米、肉など、2階にナッツやドライフルーツ屋さんが整然と並んでいる。2階からの眺めは壮観である。ドームを出ると今度はドームを囲むように果物や野菜などの生鮮食品が並ぶ。それをようやく通り過ぎると衣服類を扱う露店が列をなしている。時折チャイハナや食べ物の屋台も出ているので食べ歩きを楽しむにもうってつけ(ガイドさんは食べないでというけれど)。サマルカンド、ヒヴァなど賑やかなバザールはいくつもあるが、人口の多いタシケントだけにこのバザールが最も賑わいがあるように感じた。




(5)クカルダシュ・メドレセ・・・チョルスー・バザールを抜けると現れるメドレセ。バザールの建物に隠れて、最初はわからないがその大きさに驚かされる。青いタイルが印象的な門をくぐるとバザールの喧騒とは全く異なり、草花が彩る穏やかな場所。きっと学生たちもここなら勉学に励むことができるだろう。

興味本位に、今の所メドレセに入る人はどういう人かと聞いたところ、基本的にお坊さんや先生になる人たちが入る場所とのこと。高校を卒業したらメドレセに入るという流れが一般的らしい。「でも今は大学もあるから、今のメドレセはそこまでの役割は求められてはいないんじゃないですか?」「はい、ソ連時代にはメドレセはなくなりましたが、ソ連から独立後正しいイスラム教を教える場がなくなってしまった。だからイスラム教について正しい理解がされないままイスラム国に参加するような若者を輩出することになりました。今はメドレセを増やそうという動きもあります」、なるほど。
メドレセを抜けた後は本屋を巡り、車で新市街へ。

<タシケント市内観光:新市街>
(6)日本人墓地・・・第2次世界大戦後、ロシアに拘留されてトルクメニスタンへ強制労働されていた日本人墓地がタシケント新市街のムスリム墓地にある。鎮魂のモニュメントには花がたむけられていた。日本人観光客が参拝するのだろうか。石版には名前と出身地が刻まれている。
なおこのムスリム墓地には日本と違いユニークな点が見られる。故人の生前の顔を墓石に描いているのである。中には全身を墓石に描く人もいる。これはソ連時代の風習とのこと。


その後、タシケント市内のスーパーマーケットに立ち寄ってもらいおみやげを購入。
昼食のため市内のレストランへ。きのこスープをいただいた。温かくて美味しい。
(7)独立広場・・・ソ連時代にレーニン像があった広場。現在はレーニン像はなく、噴水が美しい市民憩いの場となっている。広場の周りには国会議事堂や財務省などの政府機関、さらには第2次世界大戦の戦没者を慰霊するモニュメントがある。


(8)歴史博物館・・・紀元前から現代までウズベキスタンの歴史を解説する資料館。2フロアのうち1フロアは石器時代からロシア崩壊までの歴史。もう1フロアはソ連崩壊後の歴史。特に現代の展示に力を入れているようで、前大統領イスラム・カリモフを讃えた内容が多い。あいにく説明はロシア語とウズベク語のみなので詳しく知りたい方はガイドをつけることがおすすめ。

(9)ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場・・・ソ連時代の1947年に完成したバレエ劇場。現在でもほぼ毎日演目が行われている。建設には日本人墓地に埋葬されている日本人の労働者も関わっており、1966年に起きたタシケント地震の時にこの建物のみ唯一無傷だった。これは日本人が建設に関わったからだと言われており、ウズベキスタンが親近感を持っている一つのきっかけとなっているようだ。

(10)ティムール広場・・・ナヴォイ劇場からブロードウェイと呼ばれるアンティークや絵画の露天商の並びを過ぎて右手に曲がると見えてくるのがティムール像。ティムール帝国を築いたティムールはシャフリサーブス出身のため、ウズベキスタンでは英雄の扱いをされている。ちなみにウズベキスタン国内には3つのティムール像があり、このタシケントの騎馬像、生まれ故郷のシャフリサーブスでは立像、サマルカンドは坐像の3タイプとなっている。

ティムール広場の女の子

(11)タシケント地下鉄・・・1977年開業の中央アジアで最初の地下鉄である。現在3路線があり、運賃は1200スム。券売機はなく窓口でチケットを購入する。ここではチケットはコイン(ジェトン)であり、これを改札に入れる。どこまでも一律料金であり、乗り換え可能。一度出口を出ると改めて運賃を払わないといけない。内装は東京の大江戸線のように一駅一駅ごとに違っていて楽しい。見所が点在し車の交通量が多いタシケント。地下鉄であれば新市街と旧市街が簡単に行き来できるので個人観光の方は重宝するだろう。
地下鉄は写真撮影禁止のためお見せできないのが残念だが特に目的も持たずに乗っても楽しいと思う。
一通り観光を終えた後はウズベキスタンホテルに戻りしばし休憩。17:30に最上階の17階のレストランにて1人で夕食。サラダとスープとメイン、デザートを一度に持ってきてもらった。

ウズベキスタンホテル最上階のレストランからの眺め

22:20のアシアナ航空に乗るために19時にガイドさん、ドライバーさんと合流してタシケントの空港へ。入国した時もそうだったがウズベキスタンは本当に検査が多い。
<タシケント空港から搭乗まで>
手続き(1)空港入り口手前でまずパスポートチェック。(ここでガイドさんとお別れ)

手続き(2)手荷物の検査(X線)とパスポートチェック

手続き(3)エアラインにチェックイン

手続き(4)手荷物検査(X線)

手続き(5)出国審査

手続き(6)さらにパスポートチェック

手続き(7)手荷物検査(X線)とセキュリティーチェック、ここでは靴も脱ぐ。
以上でようやく搭乗エリアへ。
「どんだけ見れば気がすむんじゃ!!」と怒鳴りたくなる。しかもそれぞれの審査はそこまで厳しくない。調べる回数は多いわりに、前の係員とみる場所は変わっていないのでこの一連の検査に意味はあるのか疑いたくなる。入国の時も手際の悪さと意味のなさと辟易したことを思い出した。そんな最初の印象は最悪だった国ではあるが、最初の印象と旅行を終えた後の印象のギャップは私の中で最高跳躍距離を記録したかもしれない。
最後に今回旅した中央アジアの国々の中で旅行する前の想像と違った点をお知らせしたい。
(1)食事・・・美味しい。羊の肉はあまり出ない。肉料理がメインだが牛肉がほとんど。一番美味しかったのはサマルカンドのプロフ。しかし毎回の「サラダ・パン→スープ→メイン→デザート」の流れには飽きた。詳しくは10月20日の項目を参照。
(2)ネット・・・厳しくないがスピードは遅い。ホテルや街中のカフェのほとんど全てにWIFIがある。イスラム教徒が多い国では一部サイトが規制されていたりするが特になかった。ただしラインのテキスト以外(写真など)はなぜか送信できなかった。
(3)お酒・・・比較的寛容。大体のレストランで15000スム。ただしウズベキスタンでは酒屋や観光客向けのレストランでないと扱いがない。
(4)お金・・・ウズベキスタン待望の高額紙幣50000スムが発行されたので便利に。基本的にはUSドルはそのまま使えないので両替はマスト。ウズベキスタンの観光地では至る所でカメラ持ち込み料などを請求されるし、食事の際のアルコールは有料。観光地であればほとんどどこにでも両替商はあるし、いざとなったガイドが両替してくれるので1週間程度の滞在であれば50USドルが目安。トルクメニスタン、カザフスタンでは3食付きのツアーで尚且つお酒も飲まなかったので一銭も両替せずとも事足りた。なおウズベキスタンの地方都市では円からは両替できないので必ず米ドルを用意しよう。
(5)チップ・・・習慣はないため特に向こうから要求することはない。しかしガイドに満足したならあげるのがスマート。優秀なガイドほど、チップをもらえない日本人よりも他言語のお客さんを優先したがるので、良いガイドを正当に評価するには1組1日あたり20USドルを目安に渡すのが旅行者としてのマナー。ちなみにガイドにチップはスムと米ドルはどちらがいいかを聞いたら米ドルのほうがいいとの答え。スムは見た目が多く見えるのでつい気が大きくなって使い過ぎてしまうとのこと。わかります。
(6)地元の人々・・・基本的にいい人が多い。タクシーや土産物屋さんなど交渉制のところは他との比較検討が必要だが、無意味に騙したりお金をふんだくろうという輩は少ない。イスラム教の女性は写真に厳しい印象だが、意外にもオープンな女性も多く、写真撮っていいですかと聞くと気軽に応じてくれる。ガイドは比較的日本語レベルは高い。様々な質問にも答えてくれる知識と能力がある。
※ソウルおまけ情報・・・フライトの空きの都合上、復路はソウル乗継で仁川→金浦の空港移動を経験。移動は列車で約1時間、電車賃は400円くらい。もちろん出入国があり、荷物の移動もしなければならないので面倒。よほどのことがない限り仁川同士の乗り継ぎが楽だが、羽田空港のほうが便利な人や韓国土産やフードを楽しみたい人はこちらも良いと思う。金浦空港の近くには「ららぽーと」のようなシネコン、スーパーありのロッテモールがある。
私は金浦空港からバスで1区間の松亭(ソンジョン)駅そばの食堂でサムギョプサルをたべました。日本では2人前が一般的ですが一人でも受け入れてくれて、申し分なく旨い。帰りの機内食が食べられないほど食べて1600円ほど。
<おすすめ観光地>
サマルカンド ★★★★★L
夜のレギスタン広場に感動。悠久のロマン溢れるシルクロードの青の都。果てしない旅路を経た旅人はサマルカンドをみて、あまりの美しさに天国と見紛ったのではないだろうか。サマルカンドピラウは嬉しいサプライズ。
地獄の門&キャンプ ★★★★★L
真っ暗闇の中、ぱっくり口を開いているような光景は「地獄」の表現がぴったり。近づくとあまりの熱さと熱風で圧倒される。崖のきわに立って揺らめく炎の向こうの陽炎を見ていると、このまま天罰が下って地獄の口元に落ちはしないか恐ろしくなるがそれがまた楽しい。またキャンプはガイドとドライバーとの手作り感が良い。火をおこして作るバーベキューの夕食に夜空に満点に輝く星。まるで高校生の夏休みの1ページだ。
ヒヴァ ★★★★
まさに「青空博物館」。歴史ある建造物に囲まれた旧市街はまさに中世の街並み。程よいサイズ感は町歩きにぴったり。
ブハラ ★★★★
職人の街。刺繍や手工芸品を見て歩くのも面白い。もちろん16世紀頃に建てられた遺跡群もバリエーション豊かで見ごたえあり。
アスタナ ★★★★
21世紀型都市づくりのモデルでありながら、車で30分ほど飛ばせば未だに遊牧民の生活を続ける民族がいる。あまりに奇抜で未来感溢れる街並みとユニークな伝統をもつ遊牧民、そのギャップが面白い。
(2017年10月 橋本康弘)
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