ポルトガル  - 夜行列車でパリからリスボンヘ、そして西の果てロカ岬へ-

ポルトガル  - 夜行列車でパリからリスボンヘ、そして西の果てロカ岬へ-

ユーラシア大陸の最西端ロカ岬は、12月だというのに、春のような日差しと大西洋からの吹く風がとても心地よかった。しかしながら、一歩断崖の上に足を踏み入れると、岩を叩きつける波の音が、何か異様な感覚にとらわれ,地の果てにいる事を肌で感じることが出来る。
今回の旅は、この地に訪れる事が第一の目的である。それに、出来る限り時間をかけて訪れたかった。もし私に、時間とお金に余裕があるのなら、広大なユーラシア大陸を列車やバスを乗り継いで行きたかったが、そういう訳にはいかず、今回の旅の起点となるパリまでは、飛行機で行くことにした。
パリからポルトガルのリスボンまで、途中、スペインのマドリッドを経由して、夜行列車で往復する旅である。


●パリからリスボン夜行列車の旅
オーステルリッツ駅 パリ  どんよりとしたくもり空が暮れかけたパリのオーステルリッツ駅は、冬のヨーロッパらしくさすがに寒かった。駅の構内にあるストーブの周りには、これから旅に出る人で溢れかえっていた。19:43分発、マドリッドのチャマルティン駅行き夜行列車「フランシスコ・デ・ゴヤ」号は、40分前には10番線ホームに入線していた。寒いこともあり、私も早速乗り込む事にした。すると、私より前には、国際列車らしくスーツケースを引きずった人々が、列をなしていた。マドリッドまでは、テゥーリスタクラスという男女別4人用個室寝台である。窓の中央に洗面台があり、ベッドの横には、小さいながら洋服掛けが備わっていた。ミネラルウォーターも人数分用意され、思ったより快適な夜を過ごせそうである。
部屋に入るとすでに、スペイン人らしき男の人がシートの周りに大きな荷物を置き、座っていた。私がチケットを眺めていると、その人がのぞき込み、私に「ベッドはここだよ。」とスペイン語らしき言葉で教えてくれた。まだ発車まで20分近くあるので、ホームに出て写真を撮ったりして、再び車内に戻りシートに座っていると、今度は、黒人が入ってきた。車掌さんとの話のやりとりを聞いていると、「スパニッシュ」という言葉が聞こえてきた。どうやらスペイン人らしい。いきなり、カバンの中からCDを取りだし、音楽を聴きだした。しばらくすると、その人からリズミカルな歌声が聞こえてきて、いかにも踊り出しそうな感じだった。
翌朝10:30分定刻より約2時間遅れてマドリッドのチャマルティン駅に着いた。チャマルティン駅は、日本のターミナル駅に似た近代的な駅である。駅構内には、観光案内所・両替所・郵便局・ホテルなどがあり、ショップやカフェなどの設備も充実している。 この日は、セゴビアに行く予定をしていたが、駅の係員さんに聞くと、この後、14:15分の列車しかないという、それから出かけたとしてもその日に戻れるかどうかわからないので、私は、急遽予定を変更して市内へ出かけることにした。まず、最初に鉄道に興味のある私は、ガイドブックで見て個性的な駅だなあと感じたのでアトーチャ駅に行くことにした。
そこは、想像していたとおり、清潔感が感じられ、外の日差しが館内に差し込み明るく、1階にある植物園がとても鮮やかだ。カフェも併設されさぞかし休息の一時を楽しんでいることだろう。
スペイン広場 マドリッド 次に、王宮やアルムデーナ大聖堂のあるサラマンカ地区からグランビア・スペイン広場あたりを歩いてみた。アトーチャ駅からタクシーで行ったのだが、降りてみてビックリ、観光施設のチケット売り場で行列が出来るほど観光客で溢れかえっていたのだ。確か平日なのに不思議だなあと思いつつ、ガイドブックに載っている祝日欄に目をやると、今日12月8日は、聖母受胎の日で祝日なのである。グラン・ビアで買いたい物があった私は、嫌な予感が、デパートなどは、日曜・祝日は休みが多く、案の定、私の探していた店も休みだった。
気分を切り替え、街の風景にみとれている内にあたりは、夕暮れ間近だった。
リスボンのサンタ・アポローニア駅行き夜行列車は、22:45分発である。今度の部屋は、グランクラスという1人用個室寝台である。シャワールーム・トイレが備わっていて、なんと夕食・朝食も付いているという。ホテルトレインの呼び名が付いている事がこれで納得できた。
発車して10分もしない内にノックの音が、車掌さんが夕食の準備が出来ていることを告げに来たのである。はやいなあと思いつつも時計を見ると、すでに夜の11時である。シャワーを浴びるのを後にしてレストランカーへ、すると、私の他には2・3組しかいなく、グランクラスを利用しているのは意外と少ないのではと思った。聞いた話によると、このクラスが一番早く満室になると聞いていたからである。
メニューは、前菜かスープ・メインディッシュ・デザート・コーヒー又は紅茶とフルコースである。お酒も好きなものから選ぶ事が出来る。私は、前菜に卵料理、メインディッシュに魚料理、デザートにチョコレートケーキを注文した。卵料理は、オムレツ風に仕上がり日本人にあう食感である。魚料理は、骨が多く塩辛いのが難点だったがソースとのバランスがよくパンとの相性も良く残さずたいらげた。実は、帰りのマドリッド・パリ間もこのクラスを利用しており私にとっては贅沢すぎる旅である。この時注文したのは、前菜に、何かの魚をきなこ風にしたもので、見た目は、どうかなって感じがしたが、食べてみると後味が良く徐々に美味しく感じられる料理であった。メインディッシュは、肉料理、定番のステーキである。お肉がやわらかく、ソースも醤油味でパンではなくごはんが欲しくなる感じだった。
夕食から戻ってくると、さっそくシャワーを浴びた。その日は、体の疲れに列車の揺れが子守歌代わりになり、深い眠りに入った。
●ロカ岬の起点となる街、シントラ
定刻どおり、8:13分サンタ・アポローニア駅に着くと私は、早速、ロシオ駅に向かった。ロシオ駅は、街の中心にある駅、期待を膨らませながらタクシーを走らせた。すると何て事だろう、駅が閉まっているではないか。旅行かばんを持ちながら辺りをうろうろ。すると、途方に暮れている私を一人のポルトガル人が、寄ってきて一緒にガイドブックの地下鉄路線図を見てくれた。あげくにボールペンで行き方を記してくれたのだ。結局、それを活用することは出来なかったが、感謝の気持ちでいっぱいだった。旅行かばんを持ったまま歩き疲れた事もあり、シントラまで、またタクシーを使うことに、今度は料金交渉、30ユーロで行ってもらう事に、この料金が高いのやら安いのやら考えながらホテルに着いた。
イギリスの詩人バイロンがシントラを「エデンの園」と称えたこともあり、とても美しい街である。木々の隙間から褐色の染まった尖り屋根が顔を出し、山間にこだましあった教会の鐘の音が旅行者を暖かく迎えてくれる。 その中心となるのがレプブリカ広場である。周辺には、ホテル・みやげ物屋・カフェやレストランが軒を並べている。かつての王家の夏の離宮だった王宮もこの近くだ。私は、王宮の中は、見学せず、その足でベーナ宮殿・ムーアの城跡へ。
ベーナ宮殿は、標高500mの山頂の上にたつ宮殿だけあって、眺望がすばらしい。天候の良い日は、平原の後方からテージョ川・大西洋を望むことが出来る。この宮殿は、イスラム・ゴシック・ルネッサンスなどの各様式が入り交じった何か異様な魅力があちらこちらに感じられる。ムーアの城跡は、8~9世紀にムーア人によって築かれた城で、今は廃墟となっているが、その石段を辿っていくとその当時の繁栄振りが感じられる。城壁の塔からは山の頂にそびえ建つベーナ宮殿を望む事が出来、夕暮れ間近だと西陽を背に受けたベーナ宮殿とのコントラストがすばらしい。
ムーア城跡 ポルトガル・シントラベーナ宮殿 ポルトガル・シントラ
●世界遺産の街、トレドへ
マドリッドのチャマルティン駅から列車で1時間半のところにあるトレドを観光するには、朝10時14分発の列車に乗れば、夕方5時半ぐらいには、マドリッドにもどることが出来る一種の日帰りツアーになっている感があるこの時間帯を使うのがベストだろう。今は、路線工事のため途中代行バスに乗り換えることになっている。
タホ川の断崖のうえに建つトレドは、街全体がまるでお城の様な佇まいをなしている。ギリシャ人画家エル・グレコが移り住み、生涯を送った街としても有名である。そして、世界遺産にも登録された街である。歴史や文化からも、いつも表舞台に登場してきた街だ。6世紀には、ゲルマン民族のキリスト教徒西ゴート王国がここを首都に定め、その後、イスラム教徒が西ゴート王国に攻め入り、400年に渡り支配が続く。しかしながら、その社会は、イスラム教徒・キリスト教徒・ユダヤ教徒などが共存しあってきた。そして、ヨーロッパやアラブの文化や芸術の交流が華やかな街並みを演出してくれる。
トレド スペイン 東の玄関口アルカンタラ橋は、濃い霧に覆われていた。そこからは、街全体の様子をかいまみることができず、仕方なしにタホ川を渡り坂道をのぼると、ソコドベール広場に着いた。ここは、観光案内所・ホテル・郵便局・電話局・レストランなどがあり、観光の起点になっている。カテドラル・サンロマン教会などいくつもの教会があるが徒歩圏内でまわることができる。私は乗らなかったが、珍しい乗り物がある。スペインの観光地では、珍しくないみたいだが、列車型のミニバス「ソコトレン」である。白い車体と蒸気機関車の形をしたボディーがトレドの古い街並みにほどよくとけ込んでいる。
そこから先は、いくつもの道に別れ、道脇には、ブティックやみやげ物屋・カフェが並んでいる。地元の人々は、活気にあふれ、スペイン人らしく陽気な振る舞いで私たちに接してくれた。アコーディオンやフルートなどを奏でる人もいた。
昼近くには、濃い霧もはれ、暖かい日差しが狭い石畳の道に差し込んできた。私は、どうしても街全体がみたく、この時を待っていた。アルカンタラ橋ちかくのカスティーリョ・デ・サン・セルバンドというユースホステルからのトレドの街を見たかったのである。このホテルは、古城風にたてられプールもあるという、トレドでは、とても人気のホテルのひとつである。橋を渡りホテルの庭へ、ベンチがいくつもあり展望台になっている感じである。写真を撮っている人、絵を描いている人が何人かいる。私もアングルを決めるのに夢中になってしまうほどすばらしい眺めだった。頂にそびえ立つアルカサスが目の前にそびえ立ち、旧市街からはずれたタベーラ大司教の命でたてられたタベーラ病院も新市街の白い建物がルネッサンス様式にとてもよくマッチし、ビサグラ新門を境に左半分が黒い街並み、右半分が白い街並みとはっきりと分かれているのが不思議な光景だ。
●パリからの小旅行、フォンテーヌブロ
パリを旅行すると、イルド・フランスという言葉をよく耳にする。パリ以外の地で、良く手入れされた自然の豊かさがその地域にはある。パリから100キロ圏内にいくつもの見所がある、また、ルイ14世に代表されるブルボン王朝の痕跡がこの地域に集中していることで有名だ。ヴェルサイユ宮殿・今回旅したフォンテーヌブロー・聖母マリアの衣が安置されたノートルダム大聖堂があるシャルトル・街道沿いにいくつもの古城のあるロワール・神秘的な岩山にそびえ立つ修道院が魅力的なモンサンミッシェルなど、どれを観光するか選ぶのにひと苦労だ。
最初、マドリッドからパリに着いてそのまま大阪に戻る予定をたてていた。手配していたチケットをもらうとパリ到着がトーマスクックでは、8:27分なのに11:56分になっている。聞くと冬時間とのことだ。パリのシャルル・ドゴール空港に、14:30分には、飛行機が出発してしまう。当然、間に合わないだろうと思いパリで一泊することにした。
どうせなら田舎町に行ってみたく、今回私が選んだ街は、パリ市内から列車で約40分と近いフォンテーヌブローである。
街中風景 ポルトガル・カスカイス  広大な森に囲まれたフォンテーヌブロー宮殿、中世から歴代の王が次々と増改築に取り組んだだけにその建物は、さまざまな建築様式から成りそれぞれ違った内装が施されている。緑豊かなこの地は、かつて王族の狩猟場であったらしく、泊まるためだけの小さな家にすぎなかった。そこを当時、北イタリアを征服したフランソワ1世がイタリアの建築家たちを招き華麗なルネッサンス様式の宮殿に建て変えたのが始まりである。
当時の繁栄極まる宮殿を感じさせるのが庭園にあるのではないだろうか。泉にかこまれた水面からは逆さになった宮殿が映し出され、森の中に佇む美しい光景が今も頭の片隅にはっきりと残っている。
●巨大なユーラシア大陸の西の果て、ロカ岬へ
ここに地果て、海始まる」これは、ポルトガルの詩人カモンエスが詠んだ詩の一節である。この文句を刻んだ石碑が断崖のうえにぽつんと立っている。
シントラ・カスカイス間をバスが結んでいる。この内の何本かは、ロカ岬を経由していて、どちらからでも、行くことができる。私は、シントラからロカ岬そしてカスカイスへ戻るコースを選んだ。バスに乗ってから15分ぐらいのところの隣町から急カーブの連続である。ちょっと横に目をやると、なんと60度ぐらいの急カーブの線路があった。今は、拡張工事で運休中だが、路面電車が走っているらしい。民家と道路すれすれに線路が敷かれ、電車が走ってなくても迫力さを感じた。40分くらいでロカ岬に着いた。バス停近くは、観光案内所とみやげ物屋が1件と拍子抜けといった感じがしたが、遊歩道を歩き岬の突端へ、するとそこは、この旅で観た今までの風景とは違い男性的で迫力さが感じられる、まるで別世界の風景であった。
ロカ岬 ポルトガル  もうひとつのロカ岬の起点となる街カスカイスは、シントラとは、また違った感じのする街だ。大西洋に面し、海沿いには、ホテル・レストランが立ち並び、リゾート地という感じがある。遠くを眺めていると真っ青な海のうえに白い突起物が、その時は、何だろうと思いつつ海岸通りを歩いていると、漁船が数多く現れてきた。この街は、王室一族の避暑地だった華やかさの反面、古くからの漁師街でもある。駅前には、大きなショッピングセンターもあり、街中には、お洒落なブティックなども数多く点在する。観光地でもありながら、生活感も感じられる街である。
かつて、ポルトガルは、大航海時代、黄金の国ジパングに興味を示しつつあったが、そこが黄金の国では無いことを知ると、関心を失った。しかし、偶然にも3人のポルトガル人を乗せた明国船が漂流することに、着いた先が種子島である。有名な鉄砲の伝来である。東西の出会いの始まりだ。その後、平戸にポルトガル船が入港し、日本との交易が始まった。江戸時代には、長崎の出島にポルトガル人が押し込められその後追放、交易が途絶えるが、第二次大戦中は、欧州情勢をリスボンで収集することに、日本との交流の再会である。歴史的に見ても日本との結びつきも深い、そして、料理も魚介類・米が数多く用いられ日本人の口に合うこと間違いなし、気候も温暖でのんびりした人柄など、リスボン・シントラを旅しただけだが、まだまだ未知の世界であるポルトガルの魅力に取り憑かれそうである。
憧れのロカ岬に立ってみて感じたことは、そこは地と海との分岐点になり得る地ではないか。おそらくカモンエスも、自分の人生の分岐点になった事柄を思い出しながらこの地であの石碑に刻んだ詩を詠ったのではないだろうかと思いつつ、私は、遠く大西洋を遙か彼方まで見つめていた。
赤崎 新一
2004年12月

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