インドで何度も考えた。

1日目
その朝、毎晩寝ぼけ眼で降り立つホームで西船橋行きの電車を待っていた。成田空港に向かうために…。
「インドに行ってきて。」と言われたのは忘れもしない確か3月最初の土曜日のことだったと思う。デリーでトラベルマーケットが行われるということで、それにエア・インディア ( AI ) さんよりお誘いを受け参加することになったのだ。トラベルマーケットとは政府観光局や航空会社、現地の旅行会社やホテルが一体となって観光客誘致のために世界中の旅行会社を招待してPRするというもので、今回はSATTE (South Asia Travel and Tourism Exchange) というタイトルでインドはもちろんスリランカやネパールからもPRに来るという。ちょうどいい機会なのでインド見聞も含めて行ってこいということになったのであった。
インドに行って人生観が変わった、という話はよく聞くが本当にそうなのだろうか。果たして自分も変わるだろうか。すでに変わったヤツだというのは自覚しているつもりだが。少なくとも神保町民の主食であるカレー観は変わるだろうと淡い期待を抱いていた。


私にとって、2度目の成田空港。そこへ向かうは「快速エアポート成田」。初回が「成田エクスプレス」だったのに比べればワタクシ的には一気に庶民派空港に成り下がってしまった。定刻どおりに成田空港に着き、ご一緒していただくAIの方とおち合い、チケットを受け取って驚いた。時間までラウンジを使っていただいていいですよ、と。こりゃオイシイではないですか。しかし、そんな風にラウンジを使い慣れてない私は搭乗開始時間までの10分少々でコーヒーを飲み、新聞に軽く目を通す程度の、普段昼食後にド○ールコーヒーでやってるような、あるいはそれ以下の時間の使い方しか出来なかったのであった。これは悔やまれるところだ。
搭乗時間となったので搭乗口へ向かうと、今回デリーへ向かうAI305便、ボーイング747−300コンビがスタンバっていた。「コンビ」とは「コンバーチブル」という意味で、貨物の搭載量を増やす為に客席の一部を貨物室にした、いわば客貨繚乱なひこーきなのである。搭乗券に記された機体前方のエコノミーの席に着いて窓側だァと喜んでいると、AIの方が「長谷川さん、こっちこっち!」と。荷物をまとめてついて行くと、アッパーデッキへの階段を上へ。そこには2×2の4列シートのビジネスクラスが展開されていた。これまたオイシすぎるではないですか。ビジネスクラスというと今日びはどこもフルフラットシートでパーソナルモニタが付き…という感じだが、 AI のクラシックジャンボ (B 747−400がハイテク機であるのに対してそれ以前のジャンボのことをこう言う ) のビジネスクラスは頑なにその風潮に逆らっていた。ちょうど国内線のスーパーシートによく似たシートなのだ。しかし抜き打ちアップグレードだったということで往路は実に快適に過ごせたのは言うまでも無い。
ここで今回ご一緒する他の旅行会社の方と名刺を交換したりして定刻12時を迎えた。しかし出発の気配もなく、コクピットへの通路となるアッパーデッキを整備士が行ったり来たりして「むむむ」と身構えていたがほどなく約30分近く遅れて途中の経由地であるバンコクへ向けて飛び立った。
途中ずっと曇っていて、窓の外を見ても一面の雲。景色も見えないので音楽を聴いていたが、その日は月末近く。AIに限らず日本の国内線でもよくあることだが、月末はオーディオプログラムのテープが延びきってしまうようで、よく聞く曲もテンポが遅くなってしまうのだ。これはこれでおもしろかったのだが。
気流が不安定なのか、機体は終始小刻みに震えていた。終始、といっても前夜遅くまで準備して朝はいつもより早かったためほとんどの間寝ていたけれど…。
そんなこんなでバンコクには 10 分遅れて現地時間の17時頃到着。バンコクは初めての海外旅行の時にトランジットで降り立った、私にとってまさに初めての海外の地なのだが、AIのバンコク経由便はここで降りられないため今回はひたすら機内から眺めるだけであった。AIの方によると、「買い物とかに出られて定時運行の妨げになられると困るので」だそうで、修学旅行のバスで「隣の席の人がいないって人、教えてくださーい!」のような理由に笑ってしまった。もちろん、セキュリティ面での理由もあろうが。
空港スタッフがドカドカ乗り込んできて台風のようなスピードでタイ風の掃除を済ませ、 18 時を回って一路デリーへ再び出発。すでに陽も落ちて真っ暗だったのでやはり食べて寝て過ごしたのであった。
デリーには 21 時前に着いた。まとわりつくような暑さを予想していたが、そうでもなく夜はTシャツに長袖シャツを羽織ればちょうどよいくらいの気温であった。この日はそのままSATTEで用意していただいたホテルへ向かう。最初は「ザ・メトロポリタン ホテル・ニッコー・ニューデリー」と聞いていて日航ホテルじゃぁ!と喜んでいたのだが、ザ・パークホテルというデリーの中心地であるコンノートプレイスに程近いホテルに急遽変更になったという。少々がっかりしつつパークホテルに到着し、チェックインすると今度は名前が無いと。一難SATTEまた一難。これには一同ご立腹…。
2日目・3日目
この日はSATTEのオープニングイベントが夕方からあるので、昼間はデリー市内を軽く観光することにした。 4 日目からお世話になる現地ガイドのシブさんと出会い、まずはインド門へ向かった。車で走っているとデリーの市街地にはイギリス統治時代に作られたロータリー式の交差点が多く見られた。ロータリー式の交差点は渋滞緩和に役立つといわれるがデリーの車の多さはその限界を超え、雨も降らないせいもあろう、空気も澱みきっていた。そんなデリーの街では至る所で地下鉄工事が盛んに行われていて、来年にはデリーの中心部を地下鉄が貫くという。車の中でそんな話を聞きながら、「あぁ、あそこにも“ SUBWAY ”って書いてますねぇ?」「いやいや、あれはサンドイッチのお店です」とあっさり返されてしまった。インディアン嘘つかない。
インド門に着くと、その周りには柵が立てられ、兵士がうろうろしていた。テロの噂があるのだという。しかし門の緊張感とは裏腹にそのもう一回り外側の芝生部分ののどかさとのギャップからこれがインドらしさなのかな、と感じ取れた気がした。 その後大統領官邸に向かい、イギリスとインドの折衷建築を拝見しホテルへ戻った。  その日の夕方と翌日はSATTEモードだったのだが、英語の苦手な私、もうシドロモドロでした。「何日に帰る?」と聞かれ、「サーティ」と答えると、「?」。発音が悪かったかなともう一度「 thirty 」と答えても、「??」。最後の手段とばかりに3と0を指で示すと「 Ah 、ターティ!」と。恐るべしインドリッシュ…。
4日目
朝 6 時に起き、ロビーでシブさんと落ち合い、ホテルを出る。 7 時前の列車でハリドワールへ向かうためだ。朝のニューデリーの駅は活気にあふれていた。どこの国でもそうか…。ホームでは「 Windows の終了」でおなじみのサウンドをファンファーレとして案内放送がケタタマシク流れていた。「スタート」→「設定」→「コントロールパネル」→「サウンド」 →「 Windows の終了( Tada.wav )」を何度も再生しているとニューデリーの駅にいる気分になれますので Windows ユーザーは是非一度お試しあれ。
シャタブディ・エクスプレスお目当ての列車は駅の入り口 ( 改札はないのだ ) の真ん前のホームに据えられていた。「インドの新幹線(シブさん談)」シャタブディ・エクスプレスである。主要都市間を結ぶ列車の愛称で、 12 、 3 両ほどの客車をディーゼル機関車が引っ張っていくのだ。列車に乗り込む前にシブさんに「写真、撮りたいンですか?」と聞かれ、「え、いいんですか !? 」と逆に聞き返してしまった。インドの鉄道は撮影が制限されていると聞いていたためだ。どうやらそんなこともないらしく、喜んで先頭の機関車を撮りに行った。余談だが空港はいまだに厳しいらしいので注意が必要のようだ。車両に乗り込むと2+3の 5 列で客席が展開されていて、「あぁ、新幹線かぁ」と妙な納得をしてしまった。
列車は一路ハリドワールを目指します(石丸謙二郎風)。座席は一方向に固定されていて、後ろ向きでのスタート。しばらくは50〜60 km/h くらいで悠然と走っていたが、市街地を抜けたあたりから「新幹線」の本領を発揮しだした。と言っても、 MAX 120〜130 km/h 程度。しかし、ディーゼル機関車ながらこれほどまでに某都知事が怒り狂っちゃうような豪快な走りをしてくれるとは思っていなかったので新鮮であった。しばらくすると、朝食が出された。オムレツをメインにパンやフルーツが温かい紅茶の入ったポットとともにサービスされる。おぉ、さすが新幹線!と感動した瞬間であった。日本で味わうのが難しくなった汽車旅を久々にした気がする。
適度におなかも満たされ、朝も早かったのでいつのまにか眠っていた。ふと気付くと前向きになって走っていた。進行方向が変わるほど長時間止まっていたにもかかわらず、ずっと寝ていたとは…。西村京太郎のネタにされそうである。「デリー−ハリドワール 空白の20分〜シャタブディ・エクスプレスの女〜」みたいな。
ハリドワールに近づき、トイレに立つ。洋式と印度式に分かれていて、印度式に入ってみる。床にぽっかりと穴があいていてその両側に和式同様しゃがむ形で足場の部分の島が二つ、という具合である。垂れ流し式で地面が丸見えであった。おれの老廃物たちは時速 130km で印度の大地を駆け抜けていった…。スッキリして席に戻ると、 1 人の乗客が話し掛けてきた。“ You’re Korean ?”と…。やはりこの辺まで来ると日中韓一緒くたに見えてしまうのだろう。それはさておきインドの人は実に人懐っこくて、日本人が珍しいからなのか、道中よく話し掛けられた。 5 歳くらいの子供が“ Hello…! ”と恥ずかしそうに声をかけてきて、“ Hello ”と返すとニコッとしておかあちゃんの陰に隠れる。旅してるんだなぁと感じる瞬間である。
5時間ほどの汽車旅の後、駅舎を新築工事中のハリドワールに到着。ここから車に乗り換え、リシケシュへ向かうのだが、道中でハリドワールの市街を散策することに。町の入口に立つ巨大なシヴァ神像とヒンドゥー教寺院の鮮やかな朱色が印象的だった。ちょうどヒンドゥー教のお祭りの期間中だったらしく、ガンガー(ガンジス川)のほとりには人だかりができていた。人だかりでは収まらず、牛もそこいらをウロウロしていていかにもインドらしい。そのうち牛同士がケンカを始め、辺りに一瞬緊張が走り、もはやカエルくんが「やめたまえ!ウシくん !! 」って止めてるぐらいでは収集が付けられないほどになっていたりもしたのだった。
ガンガーというとベナレスあたりの濁り濁った様子を思い浮かべる方も多いであろう。ヒマラヤに端を発するこの河もここハリドワールやこれから向かうリシケシュでもそうだったがインド北部までくるとかなり綺麗に澄み渡っていた。その代わり流れが急で、ハリドワールのガート(沐浴場)では流される人が後を絶たなかったらしく、流れを緩やかにしたバイパスを作ってそこに新たにガートを作った程だそうだ。
人々のヒンドゥー教に対する信仰心の強さに驚きつつ、リシケシュを目指す。リシケシュまでは 1 時間弱。道中、野生のサルやら飼われたウシや馬が道端をウロウロしていた。
リシケシュの街に着き、「バセラホテル」に荷物を置いてさらに街の奥に進むことにした。ここリシケシュはヨーガのふるさととして有名な町。アーシュラム(ヨーガ道場)が川の両側にひしめき合っていた。建物は学校っぽいと言えばいいだろうか。ガンガーにかかる立派なつり橋を渡ると、ここにもシヴァ神像が。その先にはアーシュラムと共に食堂や土産物屋などが建ち並び、さながら門前町のようであった。
再びホテルに戻り、今度はリシケシュのガートに向かう。ここのガートへの道も店が建ち並び、活気に溢れていた。ガンガーの水を集めるためのポリタンクや流すための花を売っていたりしていかにガンガーが聖なる川かということを物語っていた。ガートに着くと、人だかりができていた。夕方がお祈りの時間ということでそれに来た人、沐浴に来た人などなど。ワタクシもその一人ということで、ガンガーにて沐浴これから沐浴をするのだ。ガートと言えど普通の河原で、沐浴と言えど水遊びのノリで、インドと言えどだいぶ気温も落ちた 3 月の夕方、パンツ一丁になり、ワッセワッセと川の中へと突き進んでいく。ヒザ位の水位の所まで行き、手で水をすくい頭からかぶって岸へと戻ると「全身浸かって頭から水をかぶらないと沐浴じゃないです。」とシブさんから熱いダメ出しを食らう。「うーむ」と唸って再びガンガーへ。今度こそガンガーのガート肩まで浸かる。頭の先まで潜る。体中を冷たい水が刺す。が、聖なるガンガーと思うと不思議と温かく感じた。 5 分くらい浸かっただろうか。
何か不思議な充実感で岸に戻ると、やはり寒かったのでそばのチャイ屋で暖をとる。生姜の効いたチャイで体の芯から暖まることができた。再びホテルに戻り今度はアーシュラムに向かう。実際行ってみるとそこは高校にありそうな武道場のようなところでアーシュラムというよりヨーガ教室と言った方がしっくり来る印象であった。ダイエットのためのヨーガ講座なのか、体格のよいお母ちゃんとその子供達だけだったので我々二人は妙に場違いであった。余談だが、インドのマダムの体格が良いのは食事時間のせいらしい。インドでは夕食は 9 時 10 時に食べるのが習慣らしく、そのまま寝てしまうからなのだとか。
ヨガ道場ヨーガの基本は呼吸ということで、深い息を吐いて落ち着かせたところで様々なポーズをとるのである。ポーズの数は 50 数種にも上るという。いよいよ講座が始まったのだが、面食らってしまった。体育の時の準備運動そのものだったからだ。正座から上半身を後ろに反っていったり、 3 点倒立をしたり…。基本はこういうものらしく、後頭部に脚が引っかかってて…という燃焼系なのを想像してた分、あまりにも身近なこのポーズに驚いた。逆に考えれば体育の準備運動がヨーガの一部だったということなのだ。講座が終わったところで、先生に色々なポーズを見せていただく。いともたやすく逆立ちを決めていただき、「うーむ」とまたまた唸ってしまったのであった。
ヨーガの次は二子玉…ではなく再びガートに向かった。夕方のお祈りがクライマックスに達する時間だからだ。ロウソクの点いた小舟をガンガーに浮かべ流していく幻想的な光景であった。この時間になるとガートの人出は最高潮に達していて、まさにお祭り騒ぎ。聞けば毎晩こんな人出らしい。ただホテルがガートから街に通じる通りに面していたのでその夜はいつまでもやかましかった…。
5日目
朝 5 時に起きて再度ガンガーヘ。朝方は予想以上に冷え込み、 10 ℃前後といったところだろうか。この寒い中ガートでは人々が朝の沐浴に励んでいた。たくましい限りだ。最初の予定では、この時に沐浴をすることになっていたのだが、シブさんの提案で前日に前倒ししたのだった。なるほど、この気温で川に入ったら確実にどうにかなりそうだ。しかし、目の前では何人もの人が川に浸かっている。おじいちゃんおばあちゃんだけではない。老若男女が早朝から集まっているのだ。巣鴨や石切にはない若さがここにはある。朝も晩も盆も正月もクリスマスも川で身を清めようなんて何がそうさせるのだろう。
いろいろ考えさせられながらリシケシュを後にして、再び列車に乗るためにハリドワールへ向かう。 7 時 30 分の急行列車でニューデリーに戻るのだが、 7 時 30 分になっても列車が来ない。 5 分 10 分…。だがホームにいる客が騒ぎ立てる様子もない。シブさん曰くインドでは遅れが 30 分以内であれば定刻です、と。今日は定刻に来たなぁと思ったらそれは昨日の列車だった…というホントのようなウソのような話を聞いたことがあるが、今ではそこまでひどくないらしい。
15 分遅れて列車が到着。今度は寝台車に乗り込む。枕木方向に 2 段ずつ、通路を挟んでレール方向に 2 段の寝台がズラーッと並ぶ。指定された席は最も車端のレール方向の寝台で、車端の天井にはエアコンの送風口があるため上段がなかった。マニア的に言えば 583 系のパンタ下ってところだろうか。インドでは昼の利用にもかかわらず寝台が使えるようで、日本のようなヒルネ利用はなく、座席車も混結されているので純粋に寝台車は寝台車という売り方のようだ。さっそく寝台を組み立ててみる。日本ではごくわずかのA寝台に限られてしまったレール方向の開放式寝台であるが、これらが向かい合わせの座席の座面を引き出してベッドにするのに対し、インド式はやや異なり、向かい合わせの座席の背摺りの部分をロックを外して前に倒す仕組みになっていた。つまり背摺りの裏側がベッドになると言えばわかっていただけるだろうか。出来上がったベッドにさっそく荷物を抱えたまま横になるとすぐに寝てしまった。デリーまで 6 時間。この 2 日間一気に早起きになったのでありがたいヒルネ時間だった。
シブさんに起こされて、列車がデリーに近づいたのを知る。寝台車でこんなに眠れたのは初めてではないだろうかと思うくらいよく寝た。主に次いでベッドも起こす。沿線にはクリケットに興じる子ども達を幾度となく見かけた。インドではクリケットは国民的スポーツなのだ。ちょうどこの頃はパキスタンとの国際試合のシリーズの真っ最中だったらしく立ち寄る、レストランなど至る所で客も店員もテレビに釘付けになっていた。シブさんも試合の経過が気になるらしく、道中ケータイをピコピコして調べていた。ちなみにインドの携帯電話は L ・ G 製とかノキア製が主流で、モノクロ、単音がほとんどのようだ。
脱線した寝台列車の話を復旧させよう。デリーに近づいたので下車の準備をしていると、ふと床を見ると黒い物体が這っていったように見えた。JR九○の寝台車のように客室内にコン○゙ットを貼り巡らすことをオススメしておきたい。
お昼を少し回ったころに再びデリーに到着。ここから車に乗り換え今度はアグラを目指す。デリー市内で信号待ちをしていると、何度となくおばあちゃんや小さな子どもが「施しを…!」と異常に高いテンションで近づいてくるのであった。給料日前日に旅立ってしまった私自身が施してもらいたいくらいだったので、ここは心を鬼にしてウルセー無視無視光線で応戦しておいた。信号が変わると諦めて離れていった。インドの現実を見てしまったためだろうか、シブさんもバツの悪そうな表情をしていたように見えた。
相変わらず市内では車はビュンビュンすっ飛ばす。「轢き殺されてぇのかバカヤロコンニャロメぇ! ( 葬式してぇのかバカヤロコンニャロメぇ! ) 」と言わんばかりの勢いだ。デリーからアグラは車で約 3 時間の距離。この日乗った車はインドの国産車。途中の国道には信号などなく、常に 80 〜 100km/h のスピードでひたすら走り続ける。トヨタやらフォードやらヒュンダイなどの外車にはビュンビュン追い抜かれ、明らかに定員の 2 倍は乗ってるであろうオートリクシャーを追い抜いたりしつつ道中健気に走ってくれた。
砂漠が近いらしく馬・牛の他にラクダがうろつくアグラに着くころにはすでに陽は落ち、あとはホテルを目指すのみであった。アグラでの宿は「 DEETAR-E-TAJ 」というホテル。チェックインしてエレベータを待っていたちょうどその時、真っ暗になった。停電が起こったのだ。アグラの街では電力供給がまだ安定していないとのこと。ここでは、タージマハルの見える部屋を用意していただいたが、さすがに夜は見えなかったので明日の朝を楽しみにしよう。部屋に荷物を置き、最上階のレストランへ向かった。円形になっていて半分がガラス張りで昼間はここからタージマハルが一望できるという。しかもこのレストラン、回転式になっているのだ。回転式展望レストランは小学生の頃に名古屋の中日ビルに行った時以来だ。始めは客が少なかったので固定されていたが三々五々集まったところでスイッチが入れられた。起動に相当の電力を要するらしく一瞬照明が暗くなったのはご愛嬌。ここでは中華をいただいたのだがスパイスが効きすぎて、水ばかり飲んでいた気がする。そこへもういらないと言っているにもかかわらずボーイがおかわりをついでくる。さながらアグラわんこ中華大会。ここで食べ過ぎたのがいけなかった。少しずつ自分の身体が変調を訴えだしていた。
6日目
期待していた部屋からのタージマハルの展望は遠かった…。それどころではない。おかしい。明らかにおかしい。全身だるいのだ。腹も痛い。動けなくはなかったのでとりあえずかばんに入っていた正露丸を飲んで出掛けた。
フラフラになりながらも最初の目的地、タージマハルへ向かう。タージマハルへは車で直接近寄ることは出来ず、 2 キロぐらい離れた駐車場に車を止め、ここから電気自動車のバスに乗っていくのだ。近年大気汚染が著しいため、酸性雨が少しずつタージマハルの大理石を溶かしているのだという。車だけが原因ではないだろうが少しでも歯止めをかけるためにこういうパーク&ライドを行っているそうだ。
門に着いて電気自動車を降りると物売りが群がってきた。適当にあしらい、門の中へ入る。タージマハルへの門は 3 箇所あり、かつては身分によって入る門が分けられていたという。タージマハルは今から350年前、当時のムガール帝国の皇帝だったシャー・ジャハーンが、妻であるムムターズ・マハルの死をひどく悲しみ、彼女に捧げる墓として 22 年もの歳月をかけ建てたものだそうだ。世界で最も美しいシンメトリーの建築物と言われるが、それは世界で最も美しい、妻への贈り物だったわけだ。
いよいよタージマハルとご対面。今回の旅のメインディッシュを目の当たりにし、身体のだるさもしばし吹っ飛びただただ感動。
ここへ来たかったのだ。
タージマハル朝日を浴びて真白に輝くタージマハル。風がなかったので手前の池が水鏡となりその魅力を 2 倍にして映してくれた。
興奮しつつ近づいていくと、大理石部分に上がるところで靴に布製のカバーを被せるというサービスをしていた。そう、本殿は土足禁止なのだ。裸足になるかカバーを被せるかということなのだが、 20 ルピー払ってカバーを被せてもらい、ドラえもんの足みたくなっていよいよ本殿へ。近づいてみても綺麗なものはやはり綺麗だった。シャッターを切る回数が自ずと増えていく。中に入ると真ん中には二人分の棺が安置されていた。ただそれだけ。あくまでお墓なのだ。外観の壮大さとは裏腹に内部のシンプルさに少々物足りなさを感じた。地下への階段もあったのだが見ることができなくなっていたのでそこにはとてつもないお宝が隠されているに違いない…と想いを馳せておこう。再び外に出て周りを一周してみる。後ろにはヤムナー川がゆるゆると流れていた。シャー・ジャハーンはこの川の対岸にさらに「黒いタージ」の建設を目論んだのだがこれは叶わなかったという。
アグラ城すっかり満足してタージマハルを後にして次にアグラ城へ向かった。世界遺産にも登録されているこのアグラ城は1565年に建てられ、その周回は2.5 km にも及ぶという。現在でも一部は兵士の宿舎に使われているそうだ。さっそく駐在のおサルさんの出迎えを受けながら門をくぐる。建物は破壊されるのを免れるためにヒンドゥーのアーチ形、キリストの星、仏教の蓮という具合に随所にそれぞれの宗教の象徴を採り入れたのだそうだ。しかし、第一次世界大戦の頃にその装飾は大半が剥がされてしまったようで、被弾の跡が生々しく残っていたところがあったのには驚いた。はるか遠くにタージマハルを見渡せるのだが、いかんせん空気がかすみきってしまってぼんやりと見えただけだった。
太陽もすっかり昇っていい具合に暑くなってきた。再び車でデリーへ向かう。すっかり胃腸は弱りきり、お昼はマンゴージュースのみ…。見かねたシブさんが途中で車を止め、ビニール袋いっぱいにバナナとオレンジを買ってきてくれた。これはありがたかった。太陽をいっぱい浴びた甘さとシブさんの優しさがいっぱい詰まった果物を美味しくいただきました。旅行者でおなか壊す人は多いですよ、ということでとりあえずトレンドに乗っかってみたのであった。
デリーのホテル「ブロードウェイ」に着いてしばし休憩。このホテルは 2 日目に昼食を食べた所なのだが、フルーツラッシーが関西のミックスジュースっぽくてハマッてしまった。その後、夕方からホテルの近くの映画館でインド映画を鑑賞した。インドでは映画はクリケットと並んで大衆に最も支持されたエンターテインメントらしく、映画館は多くの人でごった返していた。映画館の造りも豪勢で客席は2階建てになっていて、映画館というより劇場という方がふさわしい。今回観た“ MURDER ”というタイトルの映画はその頃の「大ヒット上映中」の作品らしかった。
港で男 ( 平井堅 ) の水死体が見つかった。警察は彼と交際していた女 (20 年前のあべ静江 ) を取り調べに家までやって来た。あべ静江の夫 ( ヒゲ面の TOKIO 長瀬 ) が何事かと妻を問い詰める。それから回想シーンが始まる。
あべ静江と長瀬の出会いから始まり、結婚に至る。初めは甘い新婚生活を繰り広げていたワケだが、やがて長瀬は仕事の忙しさを理由にあべ静江をかまってあげなくなる。そのうちあべ静江は平井堅と出会い禁断の恋に落ちる。
そんなあべ静江と平井堅の仲も程よく深まったある日、2人仲良く歩いているところを長瀬の部下 ( アンタッチャブル・山崎 ) に目撃されてしまう。山崎は長瀬に報告するが、かまってあげなくなったとはいえやはり妻を信じている長瀬は山崎の話を信じようとはしなかった。しかし、やはり気になってしまう長瀬は探偵(ばんばひろふみ)に依頼。そして、平井堅とプールで仲良く戯れているところを激写。しかもなぜかカメラ目線…。
動かぬ証拠を手にした長瀬は平井堅への復讐を決める。とはいえ、初めは話し合いでカタをつけるつもりだった。平井堅の部屋に上がりこんだ長瀬。そこで見つけたあるものが長瀬の逆鱗に触れた。長瀬があべ静江に贈った置物がそこにあったからだ。それを見つけた途端、冷静を装っていた長瀬が一変。平井堅が後ろを向いていた隙にその置物を手に取り平井堅の後頭部目がけてHit!!しかしどう見ても空振り…。平井堅はその場に倒れこむ。当たり所が悪かったらしくそのまま息を引き取った。慌てた長瀬、そのまま遺体を毛布にくるみ、車のトランクへ積み込む。人間の身体を運んでるとは思えないほどピンとまっすぐに硬直した遺体を…。遺体を港まで運び海へ投げ捨てた。
回想シーンがいつの間にか現実に戻り、警察の追っ手が迫る中、長瀬は 1 人、外国への高飛びを決意する。しかし空港への道中、妻あべ静江に遭遇。そのまま連れて行くことを決意。猛スピードで空港まですっ飛ばし、飛行機に飛び乗り、見事離陸して警察を振り切ったところでスタッフロール…
( 文中の登場人物はあくまで筆者が似てると思った日本の芸能人であり、本人が出ていたわけではありません。あしからず。 )
と、まぁ関根勤が声の出ない笑顔で大絶賛しそうなツッコミどころ満載の内容であったが、最後は観客から歓喜の声と拍手が沸き起こっていた。ストーリーと関係なく突然歌い出し、踊りだす。エンタテインメントたるインド式映画の真骨頂の作品が見られた気がする。しかし平井堅、長瀬智也は世界で通用する顔立ちだなのだろうなと思った。インドの美男美女とはどのようなカンジだろうかと思い返してみれば男性はダイエーの井口、女性は羽田惠理香だという結論に至ったのであった。
映画が終わる頃には夜もとっぷり更けて、映画館の前の商店街も静まり返っていた。やはりハラの調子が芳しくなく、夕食は引き続き果物を食べ、正露丸を飲んで寝た。
7日目
身体からダルさは消えていた。おやすみ前の果物と征露丸の投入が効いたのか、お腹の中のセポイ達の反乱はだいぶ収まっていた。インド最終日、今までセポイ達にイジメられた分を取り返さねば。部屋に届けられた新聞に目を通すと、ルフトハンザのデリー線新規開設の広告が出ていた。今回の旅行中、ヨーロッパからの観光客をたくさん見かけただけに、今まで無かったのが驚きであった。
インド最終日はデリー市内のホテル見学を4軒ほどこなし、アーユルヴェーダの店へ向かう。アーユルヴェーダというよりも町の開業医みたいな店で少々面食らってしまった。 7 日間の疲れを取ってくれるなら何とでもしておくれ!とセポイにやられた身体を引き摺って半ばヤケクソになっていた。オイルまみれになってあちらこちらを揉まれているとやはり気持ちがよく、アーユルヴェーダ万歳!と世界の中心で叫んでしまうのであった。
昼食はまたもシブさんの計らいで中華料理の店へ。少し元気になったから最後の食事はインド料理で締めたいと思っていたのだが、なかなかどうしてちゃんと研究していてうまい店であった。感心しながら我々が食べている間、店員たちはやはりテレビのクリケットにかじりついていた。
いよいよ、デリーの空港へ向かう。ここまでくると、帰ることの安堵感が募るのだが、ここまでずっとお世話になったシブさんとの別れの寂しさもやはり募るのであった。空港に着いたら、ドライバーさんとシブさんと 3 人で記念撮影。どこに行っても「忘れ物は無いですか?」と気にかけてくれたシブさん。おかげで置いてきたものといえば思い出ぐらいだったのさ。チップとして財布の中のガンジー達をありったけ手渡して、礼を告げ出発ターミナルの建物へと入っていった。
チェックインと出国手続きを済ませて待合室にてしばし待つ。折り返しの帰国便であるAI 302 便はまだ到着していないようだった。待つ間この 7 日間を振り返ってみる。「インド人もビックリ」というフレーズがあるぐらいだから、もちろん余所者が驚かないはずが無い。見るもの全てがカルチャーショック。
いろいろ考えるうち飛行機がやってきた。帰国便はアッパーデッキの短い 200 型のジャンボ。帰りは単独なのでエコノミークラスだったのだが左の窓側をアサインされてゴキゲンであった。定刻にデリーをやはりバンコク目指して出発。
半分眠ったまま深夜のバンコクに到着。バンコクの空港にはプーケットエアのYS 11 がうじゃうじゃいて、寝た子を起こすにはちょうど良い刺激物であった。帰路も深夜とはいえ大掃除大会が始まるわけで、前の方からおねぃちゃんがテーブルを一つ一つ拭いて来ているようだったので目の前に来たところで良かれと思ってテーブルを出してスタンバっていたら、タイ人恐怖症になってしまいそうな勢いで素知らぬ顔で拭いて行かれたのであった。
デリーからの乗客と入れ替わりにバンコクからの乗客が乗ってきた。デリー—バンコク間が空いていたのとは逆にバンコク—成田は大盛況のようで、ほぼ満席となって成田へと向けて飛び立った。夜も遅いせいもあって、軽いドリンクサービスのあと、すぐに消灯となった。
8日目
家に帰るまでが出張です。もうしばらくのお付き合いを・・・。
あまりねむれないまま過ごして夜が明けた。朦朧としながらもオムレツの朝食を平らげ、日本であることを認識したのはすでに静岡あたりだった。富士山をこの高さから見下ろしてみたり、伊豆半島から伊豆大島の近さを知ってみたり。ほどなく成田にタッチダウンすると空港の周りには少し早めの桜が咲き誇っていた。
税関のところまで来ると、「エアインディアでご到着の長谷川様!」と呼ぶ声が。何事かしらんと思いながら名乗り出ると「エアインディアの者ですがこの度は SATTE 研修にご参加いただきありがとうございました」と。いやはやそんなご丁寧に…と恐縮しつつも京成電車と最終日の営団地下鉄を乗り継いで家路についたのでありました。
文末ではありますが、今回このような機会を与えていただいたエアインディア様に深く御礼申しあげます。ありがとうございました。
長谷川 大樹
2004年3月

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