世界の絶景シリーズ第8弾!アフリカの歴史と風景に触れる旅

世界の絶景シリーズ第8弾!アフリカの歴史と風景に触れる旅

「謎の・・・」「密林に眠る・・・」など人を惹きつけてやまない秘境と呼ばれる場所は世界に多数ありますが、今回訪れたスーダン・エリトリア、エジプトの白砂漠もまさに秘境と呼ばれる場所の1つです。度肝を抜かれるような風景と出会い、たくさんのあたたかい人々のぬくもりに触れることができました。特に白砂漠での満天の星空の下でのキャンプはとても印象的でした。内容を一部ご紹介いたします。

メロエのピラミッド群(メロエ/スーダンス)

“戦車の墓地”と呼ばれる戦車の残骸の山(アスマラ/エリトリア)


<スーダン>
最古の黒人王国の都メロエ=クシュ王国へ
日本出発から2日目のお昼、ハルツーム空港着後、ファミリーや若者に人気だという「デリシャス」というファーストフード店でハンバーガーを頬張った後、トヨタのランドクルーザーにてナイル河を北に向かって、ひたすら走ります。

ハルツーム新市街(ハルツーム)

道路沿いのローカルマーケット(ハルツーム)

この道はエジプトへ続くそうですが、このルートの最後は道が悪いらしく、そのためか交通量も少なめです。2時間半ほどで、幹線道路を離れ、道の無い土獏を1キロほど走り、夕刻メロエ遺跡に到着。ハルツームをでて途中シャイ(紅茶)休憩をはさんだものの約4時間かかったことになります。

ハルツーム郊外のカフェ(ハルツーム)

メロエは、紀元前6世紀から紀元後4世紀にかけてナイル川中流域、 現在のスーダンの首都・ハルツームの北東に繁栄した黒人の王国メロエ=クシュ王国(BC6世紀~AD4世紀)の中心となった都市です。ここにはサハラの砂丘に埋もれる様に、ピラミッドが全部で57基あります。TVで見慣れたエジプトのピラミッドより小さく、角度が急(65度以上)です。

角度が急なピラミッド群(メロエ)

砂漠に埋もれるメロエのピラミッド群(メロエ)

メロエのピラミッドにはラクダが似合う(メロエ)

少し高台に、町のほうを見下ろすように建っており、王の墓だったとのこと。ただし、すべて盗掘されており、副葬品などはここには何も残っていないようです。但し神殿の一部には今でも美しいレリーフを見ることができるものも残っていますし、見ごたえは十分。実際には一部補修がされているもののほとんど手付かずの感じが歴史マニアの心をくすぐります。

メロエのピラミッド内部に残るレリーフ(メロエ)

歴史ある観光地ではあるものの、その日観光客はだれもいませんでした。でも、それがいいんですよね。秘境に来た感じがして。私はこういう場所かなり好きです。大きさはエジプトのものと比べるとやはり小さいのですが、砂漠の中で突如現れるのでものすごい感動を受けます。そして初めてのスーダンでの夕暮れは地平線に沈んで行きました。これもなかなか日本では体験できないことですよね。
この日は遺跡の直ぐそばに併設されたロッジに泊まりました。ほんの7、8年前まではテント泊や民家泊が当たり前だったスーダンですが現在はメロエやカリマなど観光の拠点となる町に小さなロッジや民家改造型のゲストハウスが建てられ、以前より宿泊事情も改善されつつあります。
☆ホテル情報☆
「メロエロッジ」

ピラミッド群の近くにあるメロエロッジ(メロエ)

メロエロッジの室内(メロエ)

メロエ遺跡から車で10分足らずにある簡易宿泊施設。ホテルというよりは日本でいうところのドライブインのような施設。ガソリンスタンドや郵便局、モスクを併設。
部屋は簡素でアメニティもほとんどない。エアコン、衛星テレビ、冷蔵庫完備、バストイレ付。ホットシャワーもでるが水となることもあり。タオルやシャンプーなど必要なものは各自準備したほうがベター。
食堂はあり、滞在中の朝・夕食はガイドさんが準備してくれるます
民族衣装を作り続ける民家訪問やスーダン式コーヒーを堪能、夜には砂漠で星空ナイト
翌朝05:30.アザーンで起こされる。イスラムの国に来たことをあらためて実感しました。
朝食後、再度メロエを訪れ、日中のピラミッド群跡を写真撮影したあと、ナカ遺跡やムサワッラト遺跡へ。ハイウエーを大きく右にそれて、ケモノ道のような砂漠の悪路を進みます。これぞ、ランクルに適した道。

遺跡はオフロードの中に(ナガ)

両遺跡は世界文化遺産に2011年に登録されたばかりの観光地です。紀元前6世紀から紀元後4世紀頃まで都市として繁栄しました。滅亡された後も遺跡として現存します。壁画はエジプト様式に類似しており、王様は上エジプトを表している王冠を被っていました。保存状態はまずまずでなかなか見ごたえがあります。

世界遺産のナガ遺跡のキオスク(ナガ)

レリーフが印象的なナガ遺跡のライオン神殿(ナガ)

ナガ遺跡近くの井戸水をくむ人々と家畜(ナガ)

ムサワッラト遺跡(ムサワッラト)

ムサワッラト遺跡(ムサワッラト)

ムサワッラト遺跡のライオン神殿にて(ムサワッラト)

その後、ナイル川東岸に位置するやや大きめの市場町、シェンディという町を訪れ、トーブと呼ばれる女性用の伝統的衣装を扱う民家も訪問しました。親子代々受け継ぐ伝統芸能ですが近年受け継ぐ民家が少なくなっているそうです。トーブは比較的シンプルな柄ですが1つ10ドルぐらいで購入できます。

トーブの工房(シェンディ)

トーブ職人のご主人(シェンディ)

トーブ職人のご主人と(シェンディ)

遺跡見学の後は、ナイル川のほとりにあるカフェへ。愛嬌のあるおばちゃんが慣れた手つきでスーダン式コーヒー(ガフア)を入れてくれました。
スーダンのコーヒーは炭火でコーヒー豆をいるところから始まって、小さな木の臼と鉄の棒を使って豆をつぶして入れてくれる。こうやって時間をかけておいしい本格的炭火焼コーヒーが出来上がる。豆を炒って引いた時のその香り高さは格別です。ただ彼らはそこに、ジンジャーとかブラックペッパーを入れて飲みます。砂糖もたくさん入れて飲みます。 恐るべし風習の違いです。最初は「うっ何だコレは!」という衝撃の味でしたが、慣れてくるとこれかこれでおいしい。とても「深い味わい」です。乾燥ナツメヤシをあてに?このコーヒーを飲む。なかなか癖になる味わいです。お客は男の人ばかり。なにかおばちゃんと親しげに話をしています。「おばちゃんいつものよろしく!」「はいよ」なんてやり取りをしているのかは定かではありませんが、世間話に花を咲かせるような憩いの場となっているようです。そのほかカルカデというハイビスカスティーも飲みました。おいしかったです。

ナイル河沿いのカフェ(メロエ近郊)

スーダン式コーヒーを堪能(メロエ近郊)

お香を焚き、砂糖とジンジャーをたっぷり入れて飲むのがスーダン式

メロエの砂漠近くのロッジへ戻ると、今夜は星空がきれいそうだからと夕食後、近くの砂漠まで星空ナイトツアーへ出かけました。「ちょっと砂漠まで」という感覚がいいですよね。砂漠に少し入ったところで寝転がります。そこには満点の星空!現地ガイドさんの心遣いをうれしく思いました。
青ナイルと白ナイルの合流点、首都ハルツームへ
メロエよりオフロードを走ること約1時間、第6カタラクトへ。カタラクトとは急流のことで、ナイル河にはアスワンより南に6つのカタラクトがあり、ここ第6カタラクトは最も南に位置しています。岩がごつごつしていて川幅が狭くなっていましたが、あまり水しぶきが立っている訳でもなく、想像していたより穏やかな流れでした。地元の人々の観光スポットとなっていて、この日もピクニックや校外学習の生徒さんたちでいっぱいでした。

第六ガタラクト(ハルツーム近郊)

その後、ハルツームへ。ビクトリア湖を発した白ナイルとエチオピア高原のタナ湖を発した青ナイルとの合流点に位置する、スーダンの首都ハルツームは、ハルツーム(新市街)、北ハルツーム、オムドゥルマン(旧市街)の3つのエリアで構成されています。

ハルツーム新市街地(ハルツーム)

超高級ホテル「ブルジュ・アル・ファイス」

名前の由来はアラビア語の「象の鼻」。かつての象牙の取引の中心地であった事から、両ナイルの合流点が象の鼻のように曲がっているところから、など諸説あるそうです。 オムドゥルマンのスーク(市場)は、食品、生活用品からお土産にも良いイスラムグッズなどが売られていますが、規模も大きく、活気もあり買い物をしなくとも楽しいです。

オムドゥルマンのスーク(市場)/ハルツーム

アクセサリーを売る人々(ハルツーム)

オムドゥルマンのスーク(市場)/ハルツーム

オムドゥルマンのスーク(市場)/ハルツーム

オムドゥルマンのスーク(市場)/ハルツーム

ローカルレストランにて現地ガイドさんとランチ(ハルツーム)

オムドゥルマンの郊外の砂漠の所々では定期的にラクダ市も開かれ、各地から集められエジプト方面に向かうそうです。 他にオムドゥルマンでは、19世紀にエジプトのムハンマド・アリー朝に対して反乱を起こして東部スーダンを独立させたマフディー(救世主の意、本名はムハンマド・アフマド)の墓があります。同じく19世紀のイスラム神秘主義ダルビッシュの指導者ハマドの霊廟でもある、ハマデルニール・モスク(金曜の礼拝日には旋回舞踊が見られる)、

ハマデルニール・モスク(ハルツーム)

新市街では各地の遺跡出土品を収蔵した国立博物館や597ものエスニック・グループが存在するスーダンならではのエスニック・グループ博物館など多くの見所があります。特に、国立博物館はスーダン最大規模で、スーダン国内にある遺跡からの出土品を展示している、かなり立派な見応えのある博物館です。古代エジプトの神の石像やレリーフ、メロエ時代の土器、中庭にはアスワンハイダムの建設で水没する遺跡を移築したものなどがありました。

国立博物館(ハルツーム)

移設された遺跡の壁画について解説する現地ガイドさん(ハルツーム)

移設された遺跡の壁画を修復・保存するスタッフと(ハルツーム)

最大の見所はやはり両ナイルの合流点です。オムドゥルマンと北ハルツームを結ぶ橋の上から、その名の通り白く濁った白ナイルと青く(実際には黒い)濁った青ナイルを見ることができます。雨季の水位が高い時期にはナイル川をクルーズし合流点まで見学に行くことも出来ます。 このクルーズではいわゆる観光客用の大型のクルーズ船もあるのですが、小グループの場合は地元の人の移動手段となっている渡し船をチャーターする形となります。今回も偶然女子大生と一緒の船となり、記念写真を撮ってもらいました。イスラム圏の人々は保守的で写真自体も断られると思っておりましたが、快諾してくれました。彼女たちはiPhone5で撮影しており、若者の間には欧米文化の波が押し寄せているのだとじかに感じました。

いざ白ナイルと青ナイルの合流点へ(ハルツーム)

ナイル河クルーズで一緒だったハルツームの女子大生(ハルツーム)

ナイル河クルーズで一緒だったハルツームの女子大生(ハルツーム)

ハルツームの女子大生と(ハルツーム)

白ナイルと青ナイルの合流点(ハルツーム)

ナイル河クルーズ船からの風景(ハルツーム)

スーダンの人々はとても親切で、実際まだ領土問題など未解決の問題も多数抱え争っているなど信じがたいほど穏やかで危ない印象は全くありませんでした。幹線道路もほぼアスファルトで舗装され、以前は渡しフェリーで渡っていたナイル川には橋がかかり、以前と比べると移動時間も大きく短縮しているようです。近年、観光客の数は増えつつあるものの、まだまだ少なく、遺跡見学などゆっくりとお楽しみいただくことができます。今後も大きな変化が予想されるため、少しでも早く訪れることをお勧めします。
☆ ホテル情報☆
コーラルホテル
アスマラに3つある5つ星ホテルの一つ。かつてヒルトン系列だったこともあり、クオリティが高いホテルです。必要なアメニティはほとんどそろっています。Wifiも部屋でもロビーでも無料で利用できます。レストランは3つ。プールもあります。

コーラルホテル(ハルツーム)

<エリトリア>
高原都市アスマラへ
深夜到着の翌朝、マッサワへ行くための旅行許可証取得のため、まずは観光省へ。
旅行者が、アスマラなどの都市から今回訪れるマッサワなどの地方へ行く場合には、事前に旅行許可証(Travel Permit)を取得する必要があります。
そこで許可証がおりるまでアスマラ市内観光をしました。
標高2350mに位置するアスマラは、年間平均気温が17℃で、冬季(11~1月)でも半袖で過ごせる穏やかで快適な気候です。今回砂漠含む熱いスーダンの後だったため余計に涼しく感じました。
古より商業の中心地でしたが、1897年に首都となり、イタリアのアフリカ大陸進出の要、「第二のローマ」として開発されてきました。そのため、現在でも、世界有数の規模で1920~1930年代のイタリア・アールデコ建築が残されており、世界遺産登録準備が進められています。ブーゲンビリアやジャカランダが咲き乱れる街角には、美しい煉瓦作りのヴィラや、斬新な現代建築があちこちに見られ、イタリアの遺産とアフリカの風土が溶け合った独特の魅力を醸し出しています。この日は絶好の散策日和で、途中カフェに立ち寄りドーナツを食べるなどゆっくりすごしました(1つ10ナクファ)。治安が悪い様子など微塵も感じませんでした。

町のドーナツを食べながら町歩き(アスマラ)

イリタリ植民地時代の歴史を残すアスマラの町並み(アスマラ)

イリタリ植民地時代の歴史を残すアスマラの町並み(アスマラ)

町に咲き誇るジャカランダ(アスマラ)

古来より宗教が共存してきた街でもあり、キリスト教徒とイスラム教徒の割合が半々で、高原地帯はキリスト教徒、低地・海岸地帯にはイスラム教徒が住んでいます。カトリック教会のカテドラルの時計塔から市内を一望すると、キリスト教コプト教会のマリアム聖堂、イスラム教のモスクをすぐ近くに見ることができました。カトリック大聖堂、モスク、テワフド教会、シナゴーグなどが立ち並ぶ風景からは、異文化に寛容なエリトリアならではの光景かと思います。
フィアット・ティグリロ (The Fiat Tagliero Building)は1938 年にイタリア人建築家Giuseppe Pettazzi の設計で建てられた飛行機形ガソリンスタンド。30m にもなる片持ち梁式の翼には支柱が全くありません。当時のイタリアの法律では支柱が必要で、設計図には支柱が描かれていました。落成式の二日前、Pettazzi は大工に支柱を外すよう言いますが、落下を恐れて誰も首を縦にふりません。すると彼は翼に昇り、棟梁の頭にリボルバー拳銃をつきつけ、支柱をはずせ!と脅したのです。かつて「世界一豪華なガソリンスタンド」とも呼ばれましたが、スタンドは現在修繕のため休業中です。

フィアット・ティグリロ(アスマラ)

聖マリア・コプト教会( Nda Mariam)は1913 年に建てられたエリトリアとヨーロッパが見事に融合した教会です。聖 母マリアを祭ったテワフド( エリトリア正教)の 教会で、正面の壁画が特に有名です。教会建築は、左右の塔と中心部からなり、塔の白い頂上部には鐘が設置されています。中央の印象的なモザイク画は、1 950年代にイタリア人画家Nenne Sanguineti Poggiが描いた宗教画です。教会内部には、キリストの人生と新旧聖書の場面からとられた十二使徒の壁画があります。また、教会正面には大きな石でできた伝統的な鐘があり、今 も神秘的な音色を奏でています。

聖マリア・コプト教会(アスマラ)

アスマラの大聖堂は、ロンバードロマネスク様式で 1922 年に建てられた威風堂々としたカトリックの聖堂です。アスマラの目抜き通りであるハルネット通りに面し、街の顔となっています。高いゴシック様式の鐘楼は、アスマラ市内のどこからでも臨め、道に迷った時の便利なランドマークとなっています。この塔にはガイドの案内があれば登ることができ、市街の素晴らしい眺めが一望できる場所となっています。聖堂は、男子・女子修道院でもあり、小学校と共に同敷地内に設置されています。

アスマラ大聖堂(アスマラ) 

アスマラ大聖堂の敷地内の小学校の子供たち

モスク (Al Khulafa Al Rashiudin)は、1938年に建てられたものです。ムーア様式とローマン様式が融合した珍しい建築となっています。モスクの建築には、エリトリアのデケムハレ産のトラバーチンとカララ産の大理石が使われています。モスク正面には、ダークストーンのブロックが幾何学模様に敷き詰められた広場があり、タ クシーや地元の人々の溜まり場となっています。

モスク(アスマラ)

1905年に建てられた古いシナゴーグの存在は、か つてエリトリアに住んでいた500 人を超えるユダヤ人たちの歩みを今に伝えています。エリトリアのユダヤ教徒たちは、最初はトルコから、後にはイタリアやアデンからエリトリアに移民してきたと言われています。また、市場の南側には、同じく20 世紀初頭に建てられたギリシャ正教の教会も残っており、狭い区画にさまざまな宗教施設がひしめくさまは、多様な宗教が長らく平和に共存してきたアスマラの街の歴史がうかがえます。

シナゴーグ(アスマラ)

アスマラの顔ともなっているシネマ・インペロは、ハ ルネット通りにある映画館です。3階建て、2層式バルコニーを持ち、ビリヤードホール、レ ストラン、カフェバー、店舗やアパート、事務所があり、1,800名を収容できます。ファサードが特徴的で“ CINEMA IMPELO”の文字に囲まれた円形や方形の窓は、1930 年代の映画館建築としては異彩を放っています。ロビーは当時の雰囲気を最も残し、白い大理石の階段も当時のままです。館内も意匠が凝らされ、観客席と舞台を隔てる柱にはライオンの柱頭が、壁には踊り子やヤシ、アンテロープなどアフリカらしいモチーフが化粧漆喰で描かれています。

シネマ・インペロ(アスマラ)

アスマラ・シアター (Asmara Theater)は有名な建築家・技師であったOduardo Cavagnari の設計で、AnonimaRitrovi Pubblici Asmara 協会とミラノのDita Dilsizian Freres の共同事業として1920年に建てられました。シ ンメトリーが際立つファサードは、ロマネスクやルネッサンスなど、多様なスタイルが融合し、イオニア式の柱に支えられたローマ・アーチも印象的です。劇場として建てられ1930年代に映画館に改装されました。ア スマラ初の劇場で、落成当初は市内で最も大きな建物の一つでした。映画館は、1957 年にハイレセラシエの義理の息子(当時のエリトリア代表)に売却されるまで営業していました。現 在は再び劇場となっています。

アスマラ・シアター(アスマラ)

Shuqと呼ばれるメイン・マーケットは、大 聖堂から歩ける距離です。果物や野菜、骨董品、スパイス、卵、家具、陶器、土産物、衣服などあらゆるものが集まっています。周辺にも商店は立ち並び、民族衣装を売る店や、イタリア仕込みの技術でスーツを仕立ててくれるテーラー、車用品屋に写真スタジオと何でも揃います。また、郵便局の向かいにはフィッシュ・マーケットがあり早朝に賑わいます。ここもまたイタリア時代のものであり、紅海からの魚介類を調理する部屋の壁もまた美しいモザイクで作られています。

スーク(アスマラ)

聖マリア・コプト教会(Nda Mariam)から数百メートル北へ足を伸ばすと、Medereber と呼ばれるアスマラ名物のリサイクル工房と市場があります。ここでは、廃材利用によって、ありとあらゆる金属製品が作られており、日用食器や七輪( のようなもの)、自 転車部品、馬車用品、そして何と教会の十字架まで見つけることができます。場内には、スパイスや雑貨を売る店もあり、鉄くずをトンカチトンカチ叩く音とあいまって、金属の廃品が山と積まれた雑然とした中に人々の活気に満ちた生活をのぞくことができます。

リサイクル工房(アスマラ)

市街中心部から2km ほど離れた米軍カニュー通信基地跡地のすぐそばに、通称“戦車の墓地”と呼ばれる一角があり、廃棄された大量の戦車や軍用車両などが積み重ねられています。これらは、エリトリア軍によって捕獲されたものや、エチオピア軍が撤退する際に
残していったものです。旧ソ連製・アメリカ製などの戦車や軍用車両、対空砲などが、文字通り山積みされており、あたりには何の標識も説明もないものの、圧 倒的な廃棄兵器の量が30年にわたる独立戦争の苛烈さを物語っています。

“戦車の墓地”と呼ばれる戦車の残骸の山(アスマラ/エリトリア)

エリトリアの喫茶文化を体験
今回1960年代後半および70年代初頭にアスマラ万博が開催された跡地にあるカフェでコーヒー・セレモニーを体験する機会がありました。
エチオピアやスーダンではコーヒーは一般的に飲まれていますが、約100年の歴史を持つコーヒー・セレモニーは、“来客のもてなし” “祝い事” “祭り” 或いは “隣人との付き合い” 等に際して執り行われる大切な習慣となっています。いわば日本の『茶道』に相当するものです。コーヒー・セレモニーは女性のみによって進められるもので、ほとんどの場合は一家の主帰がその役目を果たします。彼女はまず部屋の一隅に刈り立ての緑草をまき散らし、屋外から自然の香りと新鮮さを取り入れます。次に、隅にすえられた低い緑台に座り、木炭用の大鉢を横に置きます。そして彼女はその場の心好い環境に趣きを添えるため昔ながらの小型くぽんだ陶上製の容器で呑料を焚くのです。来客は、彼女に向かって、多くの場合半円形になって座ります。すると彼女は客たちにつまみとして“コロ”とか“ボップコーン”あるいは“ダボ”をすすめます。それから新鮮なコーヒー豆を水洗いした後、全体がむらなく仕上がるよう凹型にくぼんだ平鍋の上で引っくりかえしたり、あるいは“メクヤ”を使いながらまんべんなく妙りあげるのです。丁度良く仕上がると.その芳香を充分に楽しめるようにお客一人一人の前で妙り上がったばかりのコーヒー豆をゆすって回ります。彼女が家の奥の方に消えると、そこから今度はすり鉢の中で、妙り立でのコーヒー豆がすりこぎですりおろされる音が聞えてくるのです。それから彼女は、根元が丸くふくれていて、通常、長く細い首が先端の注ぎ口まで続いている昔ながらの陶土製のポットに水を注ぎ入れ、湯を沸かし、コーヒーの粉を加えて、一緒に沸騰させます。(一部の地方ではこれにバター又は塩或はその両方を加えます)彼女はそこで腕のついていない小さいカップにそのコーヒーを注いですすめるのです。バターや塩が使われていない場合には砂糖を加えることも出来ます。最初のカップは、表す一番敬意を払われるべき人(通常は最年長者ですが)に注がれ、この序列は一番最後まで守られます。全員が楽しんで飲み終わったを見とどけて、彼女はカップを回収した後、ポットに水を足しし、そのままの粉で二番煎じを沸かします。その間に彼女はカップを水洗いするのです。昔からのしきたりによれば客からのもとめがあれば三番煎じも許されます。一番煎じは最も強く“アボル”と呼ばれ、二審煎じ、三番煎じはそれぞれ“トナ”、“ベレカ”と呼ばれますが、子供たちは“ベレカ”から飲みはじめることもできるのです。最後に最年長者が接待側の一字家に対して感謝と祝福の言華を捧げて、コーヒー・セレモニーは終結いたします。時間にして約2時間ぐらい。貴重な体験でした。

エリトリアの風習を紹介するエキスポ跡にあるカフェ(アスマラ)

コーヒー・セレモニー(アスマラ)

コーヒー・セレモニー(アスマラ)

☆ ホテル情報☆
メディアンホテル
古いが清潔感のある3つ星ホテル。ホットシャワーでます。アメニティはほとんどないためご持参いただくことをおすすめいたします。

メディアンホテル(アスマラ)

紅海沿岸に位置する港町マッサワへ
午後4時、朝に申請した旅行許可証がやっとおり、急ぎ早で港町マッサワを目指します。途中山や谷を何度も越えるジグザグの山道を約4時間ほど通りました。途中深い霧にみまわれ通常より時間が余計にかかりました。途中、エリトリアの有名俳優のミュージックビデオ撮影に遭遇するなど偶然の出会いもありました。夜ホテルにようやく到着。レストランで夕食を食べ、明日に備えます。

有名俳優のミュージックビデオ撮影に遭遇

☆ ホテル情報☆
レッド・シーホテル
マッサワ海岸沿いの3つ星ホテル。広さは十分ですが古い。冷蔵庫、TVあり。エアコン完備。蚊帳もあります。

レッド・シーホテル(マッサワ)

マッサワはアスマラから115km、紅海沿岸に位置する港町です。アスマラとの高低差約2300m。マッサワについて最初に思ったのはとにかく暑いということです。30度ぐらいだったかと思いますが、季節的にはまだ春で現地の人にとっては全く暑くないとのことでした。季節により非常に暑くなり、最も暑い4月には気温は40℃を超えることもあるそうです。
また、エリトリアで最も古く歴史がある街の一つで、交易・軍事上有利な立地から、古来よりさまざまな勢力が入り乱れ波乱万丈の歴史をたどってきました。古代ギリシャとエジプトではマッサワは交易上の重要都市でした。10世紀にはムスリムが居住していましたが、16世紀になると、オスマントルコの支配下に置かれ、真珠や皮革、魚介類などの交易の拠点となりました。そして19世紀後半には、イタリア領アフリカの主要港となりました。
1991年まで続いたエチオピアからの独立戦争の際には、マッサワは軍事的拠点であったために、戦闘により街の大半が破壊されてしまいました。今でも、多くの建物がマッサワ戦の激しさを物語っています。しかし近年では、国際的な港町としての魅力を取り戻し、近郊には、海水浴客でにぎわいラクダも闊歩するGurgusmビーチや、船ですぐのSheikf Said島などがあり、海岸のリゾートホテルの建設も進んでいます。また紅海やダフラック諸島への玄関口でもあり、ダイビングに訪れる観光客などで賑わっています。

Gurgusmビーチ(マッサワ)

Gurgusmビーチでラクダのり体験(マッサワ)

旧皇帝宮殿 (Former Imperial Palace)はかつてエチオピアのハイレ・セラシエ皇帝が、エチオピア海軍士官学校の卒業式のために毎年マッサワを訪れた際に使用したため、皇帝の宮殿と呼ばれています。建設されたのは、皇 帝の時代より前で、トルコの支配者によって建てられ、その後エジプト人、イタリア人へと所有者が変わりました。マッサワのうだるような暑さを凌ぐため、建物は通気をよくする広々としたアーチやドームがつけられています。1980 年代後半のエチオピア共産党政権とエリトリア人民解放戦線の戦闘の際に、宮殿は爆弾で爆破されてしまいました。現在は、建物はエリトリア政府の所有で、かつては修繕して博物館にする話もありましたが、現在も廃墟のまま保存されています。

砲撃の跡が生々しい旧皇帝宮殿(マッサワ)

旧イタリア銀行は1920 年代に建てられたもので、贅沢な造りがマッサワの黄金時代を彷彿とさせます。四面をバルコニーに囲まれ、コリント式柱頭、有孔欄干、クローウィング・コーニス、中方立て窓など細部の装飾にも贅が尽くされています。戦闘による損傷が激しいですが、現在、クウェート企業による修繕計画が進められ、全室スイートルームの高級ホテルに生まれ変わる予定です。

旧イタリア銀行(マッサワ)

ホテル・トリノは1930 年代後半に、建築家Ugo Rama の設計で建てられたムーア風の建築。現在もホテルとして営業しています。建物の落着いた雰囲気とは裏腹に、建築当時は、交差点に面した屋上部分に、11 本のキャンドルが雁行型に並ぶ奇抜な装飾がつけられていました。

ホテル・トリノ(マッサワ)

スーク(市場)跡は広場から続くのは、かつてのスーク(市場)のアーケード。かつてはマッサワの中心として商店が軒を並べ栄えていましたが、現在はアーチやエントランスの意匠などに往時の名残がみえるのみです。ここも修繕計画により近年蘇る予定です。
スーク跡(マッサワ)
聖マリア聖堂は、Tiwalet 島への入り口にある、1953 年にテワフド、エリトリア正教会によって建てられた教会です。Red Sea Hotel から歩いて2~3分の距離にあり、通りからは側壁の見事なステンドグラスがのぞめます。エチオピア領時代には、毎年、海軍学校の卒業式出席のためにマッサワを訪れるハイレ・セラシエ皇帝が参詣に訪れていた聖堂としても有名です。
マッサワ国立博物館はマッサワ市内に位置するエリトリア国立博物館のマッサワ館。2000 年に、独立戦争のマッサワでの激戦「フェンキル作戦」の 10 周年を記念してオープン。自然科学、考古学、民族学、植民地期の文化についての展示があるほか、独立戦争についても、兵器や戦場医療器具、戦場の写真や作戦図解などが展示されてます。残念ながら写真撮影不可でした。
マッサワ戦戦没者追悼公園は独立戦争中のマッサワ戦での戦没者を記念した広場。青空の下、3台の戦車がモニュメントとして飾られていますが、平和な時代にふさわしく砲身からは、砲弾ではなく水がほとばしる噴水となっています。3台の内、中央の戦車は、“Commander No.1”として知られる1977 年のアデブセマットの戦いでEPLF がエチオピア軍から捕獲した初めての戦車です。両側2台は、’90 年のマッサワ戦での戦車です。正面には、戦没者へ捧げる大統領の碑があります。
「1990 年のフェンケル作戦、1977 年の戦い、またマッサワ解放のための全ての戦闘に倒れた英雄たちを記憶するために、そして彼らの献身や勇気へのトリビュートとして、エリトリア国民とエリトリア国はこの記念碑を捧げる。マッサワは、胸を張って、希望と自信、そして努力と決意を胸に、命を賭けて街に自由の光をもたらした英雄たちを祝福したい。現在、そして未来においても。人々に勝利あれ!聖なるこの日、戦没者祈念日に。1996 年6 月20 日エリトリア国大統領 イサイアス・アフェウォルキ」

マッサワ戦戦没者追悼公園にて(マッサワ)

エリトリアの魔可不思議な料理「インジェラ」に挑戦
観光後、一路アスマラへ戻りローカルレストランへ。
出発前インターネットなどで書き込みから興味津々だったエリトリアの国民食、インジェラに挑戦することにしました。
アフリカの料理というと、日本でも比較的知られているものに、北アフリカのクスクスやタジーン等がありますが、大陸は広く食生活は多様で、キャッサバイモ、ウガリ(とうもろこしの粉)など様々なものが主食として食べられています。そんな中でもエチオピアとエリトリアの主食インジェラは特徴的で、日本の常識ではちょっと想像のつかないシロモノです。郷土料理と呼ぶにふさわしいインジェラは、薄く焼いた巨大なパンケーキのような形をしていますが、味はパンケーキとは似て非なるものです。テフというこの地方でしか生産されない雑穀の粉を水に溶かし、4~5日かけて発酵させたものを、モゴーゴという直径60cm程の、丸い蓋付きの鉄板の上に流し込み、薄く焼き伸ばしてつくります。普通モゴーゴは、石や煉瓦を積み上げてつくったかまどに、薪をくべて使うが、都市部の裕福な家庭には、なんと電熱式のものもあり、大切な嫁入り道具のひとつになっているそうです。我々にとっての炊飯器に代わるものです。家庭では、数日分のインジェラをまとめて焼き、わらで編んだ籠に入れて保存します。焼き上がったインジェラは、ふにゃふにゃでこしがなく、灰色で一見ボロ雑巾のようです。表面は少し湿っていて、発酵させたときの泡のあとが残っています。食べると少しすっぱく、慣れないと、これだけではとてもまずくて食べられません。そこでこの上にツアビィというピリピリと辛い、真っ赤なシチューのようなものをかけ、インジェラに浸しながら食べます。シチューの辛さと、インジェラの酸味が、中和されて、なかなかおいしいです。
インジェラは、ひとつの鍋を皆でつつくように、シャハニという大きな皿に盛られたものを、皆で囲んで一緒に食べます。箸やフォークのような道具は使わず、手で端からインジェラをちぎり、ソースに浸しながら食べる。家庭ではー家の主のお父さんが、まずひと切れちぎって、家族に分け与え、それから各自が食べ始めるのが習慣のようです。ツアビィには色々な種類があるが、基本にはいつも、ベルベレと言われる赤唐辛子等、約10種類のスパイスを調合した香辛料を使う。みじん切りにした玉ネギとニンニク、トマトをたっぷりの油で炒め、大量のベルベレで味付けしたものに、ありあわせの野菜や豆類を入れて煮込みます。肉の入ったものは、特にズィグニと呼ばれる。エリトリア人の好物は、ドゥロットというヤギや羊の内蔵をミンチ状に細かく刻み、ラードと塩、ニンニク等で味付けしたツアビィだそうです。お祝い事など、特別な時しか食べられないようですが、この時にはスワというインジェラをさらに発酵させてつくった地酒とともに振る舞われるとのことです。エリトリアを訪れた際は是非ご賞味下さい。ープのような食べ物です。

伝統料理のインジェラ(アスマラ)

伝統料理のインジェラを食べる(アスマラ)

伝統料理以外にもイタリアの植民地だったこともあり、イタリア人街があり、イタリア料理のお店が多数あることからおいしいピザのお店がたくさんありました。最終日はイタリアワインとおいしいピザで乾杯!ガイドさんと再会を誓いエリトリアをあとにしました。
アスマラもエリトリアも目立った見所はあまりありませんでしたが、親切な人たちばかりでとてもあたたかい気持ちになりました。特に子供たちの笑顔が忘れまれません。
<エジプト>
エジプト最後の秘境白砂漠へ
エジプトといえば、古代エジプト文明が作り出したギザのピラミッド、アブ・シンベル、ルクソールなどの神殿があまりにも有名ですが、今一部の観光客の間にひそかなブームを呼んでいる場所がエジプト西部砂漠の一つ、白砂漠と黒砂漠です。エジプト最後の秘境とも呼ばれており、幻想的な風景が人々の好奇心を惹き付けています。私自身、二度目のエジプト訪問ということもあり、強行日程ではありましたが念願かない1泊2日の白砂漠・黒砂漠ツアーに参加しました。
まずは観光の拠点バフレイヤ・オアシスへ
白砂漠へ行くにはますカイロからギザのピラミッド横の砂漠ロードをひたすら車で4時間ほど一本道を走り、観光の基点の町バフレイヤ・オアシスを目指します。早朝6時過ぎ、エジプトカイロ空港へ到着すると、急ぎ早に、ビザ取得や両替を済ませ、一路旅行社のマイクロバスで白砂漠ツアーの基点の町バフレイア・オアシスへ。対向車のまばらで、360度地平線という景色の中を快走。車を飛ばして1時間もすると本当に砂以外に何も見えない風景に変わります。それもそのはず。エジプトの国土の90%は砂漠です。サハラ砂漠の一部であるリビア砂漠は「世界で最も乾燥した地域」とされ、場所によっては20年以上全く雨が降らないようです。西方砂漠とも呼ばれるリビア砂漠には、標高0m以下まで窪んだ土地があって、地下水が沸きオアシス都市が形成されています。大きなオアシスは、西方砂漠に4箇所あり、今回訪れたバハレイヤ・オアシス(Bahariyya Oasis)もそのひとつです。
カイロから2時間半ほど。ちょうど中間地点のドライブインで小休止。カフェテリアや売店、お手洗い、それに礼拝スペースなどが完備されバフレイヤ・オアシスへ向かう人々はここで必ず休憩をするようです。

中間地点の休憩所(カイロ近郊)

カイロを出発してからかれこれ約4時間。ようやくバフレイヤ・オアシスに到着です

バフレイヤの中心 バウーティの町(バフレイヤ・オアシス)

ここでトヨタのランドクルーザーに乗り換え、1泊のキャンプに必要な荷物を準備し出発します。白砂漠ツアーは基本的にホテルが主催しています。今回はウエスタンデザートホテル主催の白砂漠ツアーに参加しました。今回のコースはクリスタル・マウンテン→アカバート砂漠→白砂漠(キャンプ)→黒砂漠。ドライバーさんはべドウィン族のマハルさん。

白砂漠ツアーのドライバー マハルさんと(バフレイヤ・オアシス)

ホテルを視察した後、シャイを飲み15分ほど休憩。ホテルロビーには宿泊者の方が書かれた情報ノートがあり、白砂漠を絶賛する書き込み多数あり期待が膨らみます。

ウエスタンデザートホテルの情報ノート(バフレイヤ・オアシス)

☆ホテル情報☆
ウエスタンデザートホテル
バフレイヤオアシスの中心バウティのど真ん中にある3つ星ホテル。部屋や部屋の調度品は若干古め。エアコン、冷蔵庫、ホットシャワー、タオル、石鹸あり。シャンプーとドライヤーなし。Wifiは有料20ポンド。レストランあり。

ウエスタンデザートホテル(バフレイヤ・オアシス)

ドライバーのマハルさんが運転するランクルに乗って1時間走ると「黒砂漠」と呼ばれる甘食パンのような形の山がボコボコと点在している場所が見えてきました。私たちがイメージするようなサラサラの砂の砂漠ではなくて、サングラスをかけていると、火星の表面に着陸したかのような風景がつづきます。

砂漠ロード(黒砂漠)

今回スケジュールの都合上、往路は「黒砂漠」観光をとばし、ここから30分ほどさらに走り、鉱泉(温泉)の湧いているオアシスに到着。砂漠に温泉とは妙な感じですが、井戸から勢いよく溢れ出る水に手を触れると本当に温かいのが不思議です。ここでランチ休憩。鉱泉の沸いている場所に併設されているレストランに行きました。鉱泉が店内に引き込まれており足湯を楽しむことができます。

鉱泉のあるレストランにて(黒砂漠~クリスタルマウンテン)

レストランの食事(黒砂漠~クリスタルマウンテン)

砂漠のランチは、焼きナスの炒め物やシーチキンと野菜の盛り合わせ、タヒーナというヨーグルトベースの酸味のあるスープ、バナナなど。アエーシを付けて食べたり、はさんで食べたり。空腹だったこともありとてもおいしかったです。
クリスタルマウンテンヘ
次に向かったのは「クリスタル・マウンテン」です。このあたりの岩は結晶で出来ていて、大小様々なクリスタルが散らばっていました。赤茶の透明色をしたクリスタルが多く、写真だと分かりにくいのですが、それに日光が反射してキラキラ輝いていました。

クリスタルマウンテンにて(クリスタルマウンテン)

アカバート砂丘へ
クリスタル・マウンテンを後に、また暫く白砂漠ロードを走ります。段々ときめの細かいパウダーサンドが増えてきました。途中道路をはずれて砂漠の中へ突入しました。そこには見事風紋砂丘が広がっておりました。これぞ「THE 砂漠!!」。途中スタックを繰り返しながら砂丘の頂上へ。

スタックを繰り返し砂丘の頂上へ(白砂漠近郊)

アカバート( AKABAT)砂丘からの眺め(白砂漠近郊)

絶景に息を呑みました。砂漠と奇岩のコントラストがなんともいえません。アカバート( AKABAT)砂丘と呼ぶそうで、今回は特別に通常ツアーで訪れるよりも砂漠の奥地に入り、砂漠サファリとサンドスキーを楽しみました。砂の上の車の乗り心地は、ふわふわ体が浮いているようで、まるで船の乗っているような不思議な感覚でした。

アカバート( AKABAT)砂丘(白砂漠近郊)

砂漠でサンドスキー(白砂漠近郊)

アカバート( AKABAT)砂丘にて(白砂漠近郊)

アカバート( AKABAT)砂丘にて(白砂漠近郊)

写真では分かりづらいのですが、砂丘の高台から視界が開けると、眼下に地球ではないような光景が広がっています。「外国へ来た」というよりも「別の星に来てしまった!」という感覚の方がふさわしい。奇岩のように見えているのは実際は「山」と表現してもいいくらいに大きいもの。この高台から砂の斜面を急降下すると、いよいよ白砂漠です。

白砂漠はすぐそこ!(白砂漠近郊)

白砂漠が近づくと、白砂漠の名の通り、地面の白い部分がだんだん多くなってきます。日の傾きとともに白さがくっきりしてきました。そして、ちょうど日が暮れかける頃、今夜キャンプをする「白砂漠」に到着。そこにはまさに期待通りの、思わず息を飲む様な風景が広がっていました。真っ白な雪のような砂漠に奇怪な岩石があちこちにキノコのように地面から生え出しています。一体、ここはどこなのか、火星か、それとも月世界か、とてもこの世のものとは思われない異次元の世界がそこにありました。
白砂漠がある一帯は、ファラフラと呼ばれていて、かつて海の底だったようです。何億年も前の珊瑚や貝が堆積して岩石化し、それが砂漠の風に運ばれる砂に削られたことから、白砂漠の不思議な景観が生み出されたとのこと。白砂漠の岩は、背丈くらいの大きさから10m近くある巨大なものまで様々です。比較的柔らかい岩なので上の方から崩れているものも多く、長い年月かけて風化された岩は、そのひとつひとつがまるで芸術品のようです。マッシュルームのような形をした岩は、上部の丸い部分が絶妙はバランスで残っていました。

白砂漠にて

いよいよサンセット。風が自分の耳を打つゴーッという音以外は何も聞こえません。地球上とは思えない不思議な空間。神経が研ぎ澄まされる瞬間とはこうした瞬間をいうのかもしれません。ピンク色に染まる白砂漠・空気や土の色。そこは完全に別世界の風景でした。

まるで月面のような幻想的な白砂漠の夕暮れ(白砂漠)

サンセットの白砂漠にて(白砂漠)

白砂漠の夕焼けを眺めたあと、暗くなる前にキャンプを張る場所を探しながらランクルで移動しました。キャンプ地が決まると、ドライバーのマハルさんは、手際よくランクルの横に風除けの幕を張り、地面に絨毯を敷いて今夜の寝床を作ります。テントの用意もありますが、おすすめはテントに入って寝るのではなく、星空を眺めながら外で寝る「ベドウィン・キャンプ」スタイルがおすすめらしい。寝袋や毛布も貸してくれるので十分寒さをしのぐことができます。車のバッテリーから電気を取って小さな電球を灯します。

白砂漠でキャンプ設営(白砂漠)

白砂漠でキャンプ設営(白砂漠)

白砂漠でキャンプ設営(白砂漠)

夕食の準備をするドライバーのマハルさん(白砂漠)

キャンプの設営が終わると、薪で焚いた火で夕飯の支度を始めました。仕込み済みのバーベキュー用のチキンを焼きます。あたりにいい香りが立ち込めます。

BBQ用に火をおこす(白砂漠)

このにおいに誘われたのか“小さな小さなお客さん”登場。砂漠キツネ「フェネック」です。慣れてるのか、あんまり人間に対して恐怖心が無いようです。特にカメラにはフラッシュ含めて、全然お構いなし。コップに水を入れて近くにおいてみたら、すぐそばまでやってきて、水呑んでました。キツネはその後音もなく闇の中に姿を消していきました。

においに誘われ砂漠キツネ「フェネック」登場(白砂漠)

ほどなく食事が整い、ドライバーのマハルさん、ガイドのミーナさんと3人で夕食。満点の星空の下、白砂漠の静寂のなかで炎を囲って食べるベドゥインの手料理はシンプルですが本当に美味しかったです。

ベドゥイン風の夕食(白砂漠)

食後は火を囲んでチャイを飲みながら団欒。焚き火のぬくもりと薪がパチパチという音だけしかない静寂の空間。上空は満点の星空。この瞬間の空と砂の色は一生忘れないことでしょう。いつもより大きなオリオン座の下テントにて就寝。

今夜は個人用テントにて就寝(白砂漠)

焚き火を前に団欒(白砂漠)

日の出前の6時頃起床。テントから外にでると、空が薄いブルーとピンクのパステルカラーに染まっていました。徐々に明るくなっていく東の空を見ながら日の出の瞬間を待つ。6時半ちょっと前に地平線から太陽がぼんやりにじみながら顔を出しました。白砂漠の奇妙な形をした岩が朝日でピンク色に染まってなんとも幻想的です。

朝日に染まる白砂漠(白砂漠)

朝日に染まる白砂漠(白砂漠)

朝日に染まる白砂漠(白砂漠)

朝日に染まる白砂漠(白砂漠)

朝日のぬくもりに有難さを感じながらの朝食も格別でした。朝食を済ませたら周囲のゴミを拾い、来た時よりも綺麗にして後ろ髪を引かれる思いで白砂漠をあとにしました。

白砂漠で朝食(白砂漠)

砂漠キツネ君が見送り(白砂漠)

白砂漠も見納め(白砂漠)

黒砂漠へ
1時間走ると「黒砂漠」と呼ばれる甘食パンのような形の山がボコボコと点在している場所に着きました。往路でスルーした場所です。ランクルを降りて10分ほど山の頂上まで登ります。足元には玄武岩の黒い欠片が散らばっていて、歩くとジャリジャリ音を立てて砕けます。強い風が吹く頂上の風景はTVでみた月面のようです。同じ地球上とは思えない風景が地平線まで広がっていました。

月面のような黒砂漠(黒砂漠)

月面のような黒砂漠(黒砂漠)

黒砂漠にて(黒砂漠)

黒砂漠から移動することさらに1時間バフレイヤのウエスタンデザートホテルに到着。
ここで1泊2日間お世話になったマハルさんとお別れです。ホテルでシャワーを浴びリフレッシュした後、カイロに戻り帰路に着きました。
1泊2日の白砂漠・黒砂漠ツアーは、度肝を抜くような景色の連続で、これまでの旅で見てきた景色の中でも特にインパクトが強く、一生忘れられないものになりました。
エジプトに来る際には、ピラミッドとか遺跡だけじゃなく、ぜひ砂漠ツアーをオススメします!

手配会社のMAIさんと(カイロ近郊)

2013年3月 渡邊
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